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秋田県 旅行記「大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)」


 大日堂とは真言密教の教主である大日如来を祀ったお堂です。この大日堂は日本全国色々な所で見ることができますが、ここ鹿角市の大日堂は正式名称を大日霊貴神社といい継体天皇の妻となった「吉祥姫」が故郷である鹿角の地に523年建てたとされ、その後718年に天皇の勅命により名僧「行基」が再建したといわれています。718年の再建時に奉納された祭礼の舞楽は1300年もの間にわたり伝承されてきた民俗芸能舞楽であり、現在はユネスコの無形文化遺産に登録されています。

御祭神:吉祥姫命、天照大神 他大乙貴神など十一柱
所在地:秋田県鹿角市八幡平字小豆沢35
駐車場:歩いてすぐの所にある八幡平駅前に共同駐車場がある。

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鳥居

大日堂の鳥居。大日堂は位置的に昔の「津軽街道」、現在の国道282号線の裏道にあり、すぐ近くに八幡平駅がある。周辺にはお土産屋さんや食事処が数件あるが基本的には静かで落ち着いた所となっている。
鹿角市大日堂の鳥居
大日堂

大日堂の光景。鳥居をくぐって真っ正面に鎮座している。写真ではわかりにくいが結構大きなお堂となっている。また周囲には神道のお堂もいくつか鎮座し神仏混交の影響をかいま見ることができる。
鹿角市 大日堂
堂内の光景

お堂内の光景。内部には自由に出入りすることができ、なかは広々としている。中央奥に仏教の大日如来が安置されている堂内には神道の鳥居があり、山岳修験の護符のようなものも見られ、独特の雰囲気を醸し出している。

鹿角 大日堂 堂内の光景
境内の光景

大日堂のお堂から眺めた境内の光景。右手奥に見える櫓のようなものはご神木である巨大な杉の木。言い伝えによるとご神木の杉の木は「おじ杉」「おば杉」の二本があり、おじ杉は数百年前に枯死し、おば杉は昭和初期の火災により根本部分のみ残されている。櫓はこのおば杉を防護しているもの。 
大日堂 境内の光景
タンブリ長者(大日堂由緒)

 昔、小豆沢(あずきざわ:現在の鹿角市八幡平小豆沢)に一人の若者が年老いた父親と暮らしていた。若者は、正直者で働き者であったが、い つも貧乏暮らしをしていた。
 また、そのころ、比内の独鈷(とっこ)という村(現在の大館市比内町独鈷)にひとりの娘が住んでいた。その娘はやさしくとても親孝行であったが、両親は数年前に亡くなり、毎日悲しみをこらえながら暮らしていた。ある晩のこと、娘は夢を見て、白髪の老人から、「これからすぐに家の前の小川を下り なさい。そして、大きな川にぶつかったら川上の方向へ進んで行きなさい。日が暮れる頃一人の若者と出会うだろう。その若者は働き者で人の倍も良く働く若者であるから夫婦になるがよい。」と言われた。
 夢から覚めると、娘は神様のお告げだと思い、翌朝早くお告げの通り進んでいくと日が暮れるころ、小豆沢にたどり着き、木を切っている一人の若者を発見した。娘はこの人が神様に告げられた人だと思い、この若者に夢でのお告げの内容をすべて話して聞かせた。この話を聞いた若者は娘を家に連れて帰り、二人は夫婦になることにした。
 父親と若夫婦は、まじめに働き、仲良く暮らしていたけれども、正直すぎるせいか貧乏生活が続いていた。
 ある年、正月だというのに神様にお供えする餅や酒が無く、一家は、「ああ、なさけない。正月だというのに神様へのお供え物一つできない。」と、ため息をつき悲しんだ。するとその晩、若者の夢の中に白髪の老人が現れ、「われは大日神(だいにちしん)である。ここはお前たちの住む場所ではない。ここから川上に進んで行くと広い場所があるので、そこに住むがよい。その場所では、数多くの田や畑を耕して長者になることができるだろう。ここを早く立ち去るがよい。」と告げた。若者は、はっと目をさまし、そばに寝ている妻を起こして今見た夢の内容を話すと、その妻も同じ夢を見ていたとのことであった。
 早速、翌日の正月2日、父親と若夫婦は三人で、川上の方へ旅立った。日が暮れたころ、お告げのとおりの広い場所にたどり着いた。そこは田山(現在の岩手県八幡平氏田山)の奥の平間田という村であり、三人は村長から村に住む許可を得て、この村で暮らすことにした。
 ある夏の暑い日のこと。畑で働いていた2人は木陰で昼休みをしていた。若者が暑さと疲れで、うとうと寝ていた時、少し離れた岩の陰からダンブリ(トンボ)が飛んで来るなり、尾を若者の唇につけてまた向こうの岩の陰へ飛んで行き、また飛んで来ては尾をつけるというように、同じ行動を何度も繰り返した。妻は不思議な行動だと思いながら、黙ってそのダンブリの様子を見ていた。
 やがて、若者が目を覚まし、「ああ、俺は今、これまで飲んだこともないとても美味しい酒を飲んでいた。おまえにも飲ませたいなあと思っているうちに夢がさめてしまったが、今でも、その味が口の中に残っているよ。」と唇を舌で舐めながら話した。妻は、 「あなたが眠っていたとき、何度も向こうの岩の陰からダンブリが飛んで来てはあなたの口にしっぽをつけていましたよ。」と、これまでの様子を話して聞かせた。
 不思議なこともあるものだと思い、2人でダンブリが飛んで行った方へ行って見ると、岩の間から香りのよい泉がこんこんと湧いており、泉の水を手に汲んで飲んでみると、それは、おいしいお酒であった。この酒は、飲むとたちまち元気が出てくる酒であり、この酒を飲んだ人はどのような病気もすぐに直り、長生きできる酒であった。
 2人は、そこに家を建てて住むことにした。 この宝の泉の話は、四方八方に広まり、この水を求めて人々がしだいに集まってくるようになった。そして2人は、宝の泉のおかげで、金や銀、宝石がたくさん集まり、たちまち国一番の長者になった。
 2人はその後、大きな屋敷を建ててたくさんの人々を迎え入れた。そして、その多くの人々が食べる米の白い“とぎ汁”が川下まで白く流れていくようになり、その川は後に米白川(米代川)と言われるようになったとの伝説もある。
 2人は、どんな望みもかなえられるほどの長者になったが、40歳を過ぎても子供に恵まれなかったため、子供が授かるよう、毎日毎日、大日(だいにち)の神様を拝んだ。ある時、その願いが通じたのか、女の子が授けられた。 その子は、しだいに賢く可愛らしい娘となり、秀子(のちの吉祥姫(きっしょうひめ))と呼ばれ、皆にかわいがられて大事に育てられた。
 大金持ちになった2人は、みんなにダンブリ長者と呼ばれるようになっていたが、そのころ、長者を名乗るには、天皇の許しがないといけなかった。
 そこで、都に上って天皇にお願いすると、「長者というものは、世の中すべての宝物を持っていなければならない。第一の宝は子供であるが、お前には子供がいるか。」とお尋ねになった。2人は「女の子が1人おります。都を見せたいと思い連れてまいっております。」と答え、娘を天皇に会わせた。秀子はとても美しい女性であったため、天皇に気に入られ、宮中につかえることになった。長者夫婦は、本当の長者を名乗る許しを得たうえに、たくさんのほうびをもらい、喜んで故郷に帰った。都に残った秀子は、吉祥姫と名前を変え、後に天皇(継体天皇)のお后になり幸せに暮らした。
 月日も経ち、長者夫婦が年老いて亡くなると、しだいに、宝の泉もただの水となり、その場所に数多く住んでいた人々もいなくなってしまった。 吉祥姫は都でそのことを聞いて、悲しみ、天皇に、「私の父と母は、夢に現れた大日神のお導きで、長者の位までいただけました。そのいわれを、ぜひ後の世まで伝えたいと存じます。」とお願いした。天皇は「神は国の守りである。長者が尊んでいた大日神の神社を、長者の故郷に建てるとよい。」と言い、使いの者を故郷の小豆沢へ派遣し、大日堂(大日霊貴(おおひるめむち)神社)を建てさせた。
 そして、大日堂のお祭り(ザイドウ)が毎年正月2日に行われるようになった。これは、長者夫婦が夢の中で神様のお告げを受けて、運が開けるようになったのが正月2日だったことからである。都からは、踊りや笛、太鼓を教える人が大勢来て、大里、小豆沢、長峰、谷内の四地区の人たちが祭りの時に、舞を納めるようになった。これが現在では国指定の重要無形文化財となっている「大日堂舞楽」の始まりと伝えられている。
 年月も過ぎ、吉祥姫が亡くなると、吉祥姫の遺言どおり、故郷の大日堂のそばに吉祥姫の墓が建てられた。そばにはイチョウの木が植えられ、吉祥院というお寺も建てられたということです。。
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