平泉と奥の細道



 奥の細道で有名な松尾芭蕉は皆さんもご存じのとおり平泉にも立ち寄りいくつかの俳句を残しています。
芭蕉が平泉を訪れたのは1689年5月13日(現在の暦では6月29日)で奥の細道には当時の平泉の様子を「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」、「秀衡が跡は田畑となりて金鶏山のみ形をのこす」などと記しています。
 では以下に芭蕉が平泉で残した俳句を紹介します。


※奥の細道は俳句集ではなく俳句を交えた紀行文です。
※宿泊地は現在の一ノ関駅周辺でたどった道も現在の国道4号線とほぼ同じルートと推測されています。

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと


夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと  芭蕉が源義経自刃の地とされる高舘で詠んだ句。ご覧の通り北上川を見下ろす高台。高台の一画には江戸時代に伊達氏が建てた高舘義経堂と共に芭蕉の石碑が建てられている。平泉の文化遺産群は光景の後方に展開しており、有名な衣川は左側にあります。

五月雨の 降り残してや 光堂


五月雨の 降り残してや 光堂 光堂とは金色堂のこと。芭蕉は当時この旧覆堂に納められていた光堂を見て上の句を詠んだと言われています。一説には当時は覆堂に覆われ光堂を見ることができなかったといわれていますが、奥の細道には「二堂開帳す(二堂とは経堂と光堂のこと」と記されていますし、筆者個人的には松島を訪れた際になにも句を残さなかった芭蕉が、実際見ていない光堂の句をわざわざ詠むのは考えにくく、実際に間近で光堂を見たのではないかと思っています。

平泉における松尾芭蕉の行程について


 松尾芭蕉の随行者である曾良(そら)が記した曾良日記によれば、松尾芭蕉らは旧暦の5月12日に一関に宿泊し翌13日の10時頃平泉へ旅立ち17時頃には再び一関に戻ってきています。つまり平泉の旅は日帰り7時間の行程だったのです。一関から平泉へは片道7kmほど。健脚の松尾芭蕉でも1時間30分はかかると推測されます。この為実質平泉に滞在した時間は4時間ほどであり、その間に高舘、衣川、中尊寺、秀衡屋敷などを徒歩でまわる現在のバスツアーも顔負けの強行軍だったのです。
 なおこのような強行軍となりながらも平泉に立ち寄った理由は記録がない以上想像を巡らすよりほかありませんが、やはり旅の目的が諸国の名所旧跡を巡ることと古の西行法師の足跡をたどる旅であったこと(西行法師は平安時代に平泉に立ち寄り祖先が同じである奥州藤原氏からもてなしを受けてます)、さらに芭蕉は義経の大ファンであった事などを考えると芭蕉にとって平泉はどうしても外すことのできない旅の要となる場所だったのでしょう。