角館の歴史



角館 歴史 数多くの武家屋敷が建ち並ぶみちのくの小京都「角館」。この角館の美しい町並みはどのような歴史を経て今に伝わっているのでしょうか?本ページではこの角館の歴史についてご紹介するとともに角館に伝わる樺細工やお祭り、桜などの歴史や由来等についてもご紹介していきます。


〜戦国時代


 室町時代、角館のある仙北地方は戸沢氏という大名が治めていました。仙北地方を含めた北東北は南北朝の頃より各大名間の争いが絶えず、戸沢氏は1424年に要害の地である現在の角館に角館城を築き角館を本拠地に定めました(角館城築城は1500年代前半という説もあります)。角館城は現在の角館武家屋敷の北側にそびえる高台に築城された山城で三方を川や山に囲まれたまさに天然の要害でした。

 戸沢氏は近隣の小野寺氏、安東氏、南部氏などと激しい勢力争いを繰り広げ、1570年の頃には仙北地方のほぼ全てを支配下に置くことに成功します。まさにこの時が戸沢氏の絶頂期でありましたが時を同じくして豊臣秀吉による天下統一も着々と進んでいきます。
 豊臣秀吉の小田原征伐がはじまると当時の戸沢氏の当主であった戸沢盛安はいち早く小田原に駆けつけ所領を安堵されます。しかしその後関ヶ原の合戦において戸沢氏は東軍に与するも、行動が消極的だった事を理由に常陸国(現在の茨城県)へ減転封されてしまいます。



江戸時代


 戸沢氏が去った後に角館を治めたのが蘆名氏です。蘆名氏は元々会津地方を治めていた戦国大名でしたが、1584年に18代当主蘆名盛隆が1586年に19代当主亀王丸が相次いで亡くなり跡取りがいなくなった為、血縁関係にある常陸国の佐竹家から佐竹義広を養子にもらい名字を蘆名に変え当主に据えました。
 これを面白く思わなかったのが同じく蘆名、佐竹家と血縁関係にある伊達家です。伊達家と蘆名家・佐竹家の対立は激しくなり、やがて摺上原の戦いを引き起こし蘆名義広率いる蘆名家は伊達政宗率いる伊達家に敗れ、蘆名義広は本拠地である会津を捨て実家の常陸国佐竹家へ落ち延びて行きます。
 関ヶ原の合戦では佐竹家は西軍に与した為、所領を没収され秋田へ転封となります。蘆名義広も佐竹家の当主で実の兄である佐竹義宣に従い秋田に行き、角館の地を与えられます。
 こうして「出羽国久保田藩角館」初代領主である蘆名義勝が誕生するのです(蘆名義広は秋田入りの頃に名前を義勝に改めてます)。


※余談となりますが戦国時代の蘆名家、佐竹家、伊達家といった東北地方の有力大名は長年の政略結婚によって互いに親戚関係にありました。ですから蘆名家の当主が途絶えた時は伊達家も血縁関係にあり当然の事ながら養子を送り込む大義名分はあったのです。ちなみに蘆名義広と伊達政宗は従兄弟同士の間柄にあります。
 

角館武家屋敷の誕生


 角館の地を与えられた蘆名義勝は早速町作りに着手します。三方を川や山に囲まれた角館城ですが院内川に沿った南側は開けており、ここに城下町を作っていきます。これが現在の武家屋敷通りの基礎となります。武家屋敷通りはお城の防衛施設しての機能も併せ持っている為、通りは直線ではなく曲がり角のあるクランク状に、屋敷の門も低めに作られています。



佐竹北家による京都文化の移入

 蘆名家は三代目で跡取りが途絶え、変わって佐竹家の分家である佐竹北家が角館を治めます。佐竹北家の初代当主である佐竹義隣は京都の公家出身でしたが、妻が佐竹家出身なので養子となり佐竹北家を引き継ぐ事となりました。義隣は京都を懐かしみ京都の文化を積極的に持ち込みます。また2代目の義明も公家の娘を妻にもらっており京都の文化がどんどん移入されていくこととなります。こうして「みちのくの小京都」とよばれる角館の熟成された町並みが出来上がって行くのです。



桜の歴史

角館 歴史  佐竹北家の2代目である義明の妻が京都から嫁入りする際の嫁入り道具の中に、3本の桜の苗木があり、この苗木が今の角館の武家屋敷を彩るしだれ桜の元になったと伝えられています。およそ今から350年ほど前の江戸時代初めの頃の出来事です。
 また桧木内川堤の桜(ソメイヨシノ)は歴史が浅く、1934(昭和9)年に平成天皇の御誕生のお祝いに町民により植えられたものが今に至っています。



角館のお祭りの歴史

角館のお祭り 曳山 角館のお祭りについてはその起源がはっきりとしない部分があるものの、歴史上初めて公式の記録に出てくるのは佐竹北家になってからで今から約300年程前のこと。佐竹北家が京都の文化を移入させていた時期であることから、京都の祇園祭に代表される山車の文化が角館に伝わり、町作りを行っていく過程で独特の特色を持ち現在に至っているのではないか?と推測する研究もいます(注:角館のお祭りの起源については諸説あります)。


樺細工

樺細工伝承館 館内の光景 角館名物の「樺細工」。この樺細工は元々は秋田県の阿仁地方(現在の北秋田市)の修験者達に代々伝わっていた技法ですが、200年ほど昔に修験者の御処野家より伝承され、以来下級武士の冬の間の内職として角館で技術、伝統が育まれてきました。今では阿仁地方の技法は途絶え樺細工は角館だけの伝統工芸品となっているのです。





明治〜現在


戊辰戦争

 明治元年に戊辰戦争が始まると秋田県のほぼ全域を領地としていた佐竹家の久保田藩は新政府側に付きます。しかし東北地方の有力大名は奥羽越列藩同盟をくみ旧幕府側に付いた為、角館も奥羽越列藩同盟に攻め込まれる事態となります。この戦いは武家屋敷よりもさらに南側を流れる玉川を挟んで行われ、終始新政府側(久保田藩)が劣勢でしたが、やがて東北諸藩が続々と新政府に降伏していった為に列藩同盟側が久保田藩領から撤退し角館は戦火を免れる事となりました。


明治以降

 明治の世となり廃藩置県が行われると仙北地方の行政・経済の中心は角館から大曲方面に遷り角館は近代化の波に乗ることなく昭和の時代をむかえます。
 そして昭和51年(1976年)になると江戸時代の町並みや建物がそのまま残された武家屋敷地区一帯6.9ヘクタールが「重要伝統的建造物群保存地区」として選定され一躍脚光を浴びることとなり、観光客も多く訪れるようになりました。また平成の世になると秋田新幹線の開業やJR東日本のCMに使用された事なども後押しとなり、東北を代表する一大観光名所となり今に至っているのです。