高野山 観光案内 「壇上伽藍と根本大塔」



 壇上伽藍は空海が高野山の地に辿り着き、まず最初に整備した所でいわば宗教都市高野山発祥の地でありシンボルともいえるところです。壇上とは大日如来が鎮座する場所もしくは修行の場を意味し、壇上伽藍は胎蔵曼荼羅を表していると言われ、配置されている伽藍(仏教建造物)は空海が配置を考えたとされる高野山だけに見られる独特の配置となっています。なお壇上伽藍は金堂に右肩を向け時計回りで巡るのが正しい参拝順路とされています。

拝観料 壇上伽藍への出入りは自由ですが金堂・根本大塔の拝観は各200円となっています

拝観時間 8:30〜17:00

駐車場 あり

所在地 別途「観光コース」の地図を参照


根本大塔


高野山 根本大塔 弘法大師空海とニ代目の真然大徳(だいとく)と二代にわたる歳月をけかけて建設された真言密教の根本道場。壇上伽藍における中心的建造物ですが、完成当時は大塔を維持していくのが大変だったというエピソードも残されている壮麗な建物。
 なお根本大塔は内拝することが可能で(内拝料200円)内部の5体の仏様が安置されている立体曼荼羅は見る角度によって光景がことなる荘厳な空間となっています。
 最近は立体曼荼羅の側面部、仏様に一番近いところにお賽銭を立てて納める方が多く見られるようになり、ちょっとした見所のひとつとなっています。



蓮池


高野山 蓮池 高野山の蓮池。壇上伽藍の南東部にある池で池の中央には善女竜王(ぜんにょりゅうおう)社が建てられている。昔は名前のとおり蓮が池一面に生えていたそうですが現在は鯉が泳ぐ池となっています。

金堂


高野山 金堂 壇上伽藍の金堂。金堂は高野山の総本堂として修行の中核を成してきた施設で高野山における重要行事のほとんどがこの金堂で行われます。なお現在の金堂は昭和7年に建てられたもので鉄筋コンクリート造りになっています。

三鈷の松(さんこのまつ)


高野山 三鈷の松(さんこのまつ) 三鈷の松は御影堂と金堂の間にある松で朱色の垣根に囲まれています。その昔唐(中国)で修行中の空海が真言密教の教えを広めるための場所を求めて日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)を投げたところ、この松に引っかかり、もって高野山を真言密教普及の地としたとされる言い伝えが残っています。なおこの松の葉はお守りとしても人気があり、特に三鈷にちなんで三本に分かれた松の葉は拾って大切に持っていると幸せになれると信じられています。

※通常松の葉は二葉(二叉)なのですが、ここ三鈷の松はなぜか三葉の葉がごく稀に生えています。

不動堂


高野山 不動堂 不動堂は1197年鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王の発願により建立された建物で当時は阿弥陀堂だったといわれています。お堂の四隅は皆形が異なっており、昔は運慶作の八大童子が安置されていました(現在は霊宝館で保管されています)。高野山に現存する最古の建物のひとつでもあります。

御影堂(みえどう)


高野山 御影堂 御影堂は元々はお大師様(空海)の持仏堂として建てられたもの。現在は「弘法大師御影像」が奉安され、お大師様の十大弟子像が安置されています。一般の人間は通常時中に入ることができない神聖な建物。

空海上人とはどんな人?


 空海(宝亀5年(774年)〜承和2(835年))は平安時代初期の僧侶で能書家としても知られ、日本文化の母とも称される当代きっての教養人。お遍路で有名な四国八十八ヶ所霊場を開いた人でもあります。生まれは讃岐の国(香川県善通寺市)で若い頃は学者を目指し京の大学で勉強していましたが、やがて仏門に入り修行に研究に明け暮れ、804年遣唐使の留学僧として唐に渡り仏教や薬学、土木技術などを学びます。なおこの時すでに仏教界で確固たる地位を築き、空海生涯のライバルとなる最澄も同じ一行に加わっています。唐で仏教の奥義とされる密教を習得した空海は806年日本に帰国します。この時最澄はすでに帰国していたのですが、滞在期間が短かった為、密教は完全に取得していませんでした。最澄は密教に関しては空海を師と仰ぎ朝廷も密教を習得した空海を認め、空海の名は世に知られるようになっていくのです。最澄と空海は10年ほど親交を結びますが、やがて互いの思想の違いから対立するようになります(対立の理由は諸説ありますが正直正確な所はわかってないそうです)。20世紀まで続く比叡山(最澄が開山)と高野山(空海が開山)の長年の対立は開祖の時代から始まっていたわけです。
 やがて高野山を修行の地と定めた空海は壇上伽藍の建設に着手し、そのかたわらで、香川県にある日本最大の農業用ため池「満濃池(まんのういけ)」の改修を成功させたりしています。そして空海は835年高野山で入定し現在も高野山で瞑想しているのです。

 空海については色々と伝承が残されていますが、それは空海が僧侶としてだけではなく、多岐にわたる知識を持った文化人でもあり、その才能を世のために役立てた結果、神懸かり的な伝説として今に伝わっているのだと推測されています。
 また性格についてはライバルの最澄については誰も悪く言う人はいないのに空海については批判的な事をいう人も多く、総本山も最澄の比叡山が仏教の母山と称されているのに対して高野山は真言密教を習得する厳しい修行の地というイメージが強く、おそらく最澄が「誰でも温かく包み込む太陽のような人物。悪く言えばお人好し」だったのに対して空海は「カミソリのような頭の良さの持ち主で、物事の善し悪しを見抜き、はっきりと口にする人物」だったのではないでしょうか(あくまでも個人的な感想です)。