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勝連城跡 勝連城の上空写真。勝連城は5つの郭で構成されており、勝連半島の高台にあり最上階の城壁越しに見る中城湾と金武湾の眺望は素晴らしく人気がある。 |
勝連城の特徴は美しく均整のとれた石垣。12〜13世紀に建造されたといわれているが、その美しさは21世紀の世にあっても健在で小高い丘の上にあることからうるま市エリアのランドマーク的存在となっている。 |
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石垣 勝連城跡。近隣の中城城、座喜味城跡と共に世界遺産に登録されている。いずれも石を積み上げた美しい曲線やアーチが特徴で。石造建築物としては最高水準の技術で作られている。 |
城内の光景 勝連城城内の光景。勝連城は11〜12世紀頃に築城され、15世紀に琉球史に名を残す阿麻和利が改修した城。城内からは海外貿易で入ってきたと思われる青磁機などが出土している。 |
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写真提供 沖縄観光コンベンションビューロー及びField Work | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
護佐丸・阿麻和利の乱 15世紀半ば。尚巴氏が初めて琉球統一を成し遂げた際に戦功をあげた護座丸は、その娘が尚巴氏の妃となったことから姻戚となり首里に近い中城城に城を構え、王家守護の任にあたっていました。その中城の北東には勝連城があり城主の阿麻和利は尚巴氏の息子で現国王泰久の娘である百登踏揚を妃に迎えていました。 阿麻和利は現国王の娘婿である自分がいつかは王位につくこともあろうかとひそかにその機会をうかがっていました。そんな阿麻和利にとって目の上のたんこぶが護座丸が守る中城城です。中城城は阿麻和利の居城である勝連城と首里城の間に位置しており邪魔なことこのうえありません。さらに護座丸は阿麻和利の野望をいち早く察知し万が一に備え兵や武器を集め備えていました。またそのことを阿麻和利も察知していました。そこで阿麻和利は小舟に乗り中城城を迂回し首里城に行くと泰久王に「護座丸が兵や武器を集め謀反の準備をしている」と讒言します。はじめは信じてなかった泰久王も熱心に説く阿麻和利におされ、中城城の様子をそれとなく調べてみました。すると阿麻和利の言ったとおり中城城内では多くの兵士が集まり日々戦闘訓練をしているとのこと。この報を受けた泰久王は阿麻和利を総大将に中城城攻略を命じます。その日護座丸は中城城で月見の宴を催してましたが王命により阿麻和利が攻めてきたことを知ると「王軍には抗することできず」といい城内にある祖先の墓で夫人と子供を刺し自らも首を刎ねて死にました。こうして邪魔者を排することに成功した阿麻和利の野望はさらにふくれあがりやがて自ら首里城に攻め込もうと企みます。この阿麻和利の謀反の企図を察知したのが阿麻和利の妻で現琉球国王の娘でもある百登踏揚の付き人である大城賢雄です。大城は直ちに百登踏揚に阿麻和利の謀反を告げその夜二人は闇にまぎれて城を抜け出しました。剛の者でもあった大城は百登踏揚を背負いやっとのことで首里城に辿り着き、阿麻和利謀反のことを報告しました。泰久王は大いに驚き阿麻和利討伐を決意します。この戦、王国軍は一時首里城周辺まで攻め込まれますが、やがて大城を総大将とした王国軍は巻き返しやがて勝連城に攻め込みます。そして大城は阿麻和利を討ち取り、護座丸・阿麻和利の乱は終わりとなり、大城は戦功をたたえられ百登踏揚を妻とし勝連城の城主となるのです。 以上が一般的にいわれている護座丸・阿麻和利の乱ですが、実は諸説あり王朝の有力者だった護座丸・阿麻和利の勢力争いの結果だったという話しや、百登踏揚は阿麻和利へ嫁ぐ前から大城賢雄とは好い仲であり阿麻和利は「知らぬは亭主ばかりなり」の役回りだったという説もあります。いずれにせよ阿麻和利が伝説どおりの才知に長けた悪者であったという説には疑問符を投げかける専門家もいることを最後に付け加えておきます。 |
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