世界遺産 三内丸山遺跡とは



 三内丸山遺跡は青森市の南西部にある国内最大規模の縄文遺跡で、その広さと巨大さから従前までの縄文文化のイメージを大きく塗り替えた遺跡です。遺跡そのものの存在は江戸時代から知られていましたが、1992年に野球場の建設工事に着手したところ、この遺跡が過去に前例の無いほど大規模な集落跡であることが判明しました。この為、学会、マスコミ、市民などから遺跡保存の動きが活発化し、行政は既に着工していた野球場建設を中止せざるをえなくなり遺跡の保存を決定、特別史跡三内丸山遺跡として調査・整備し現在にいたっているのです。


三内丸山遺跡


三内丸山遺跡の光景 三内丸山遺跡の光景。5000年前にはこの場所で縄文人が生活していました。遺跡からは鯛やヒラメ、栗等を食べていた後が見つかり、意外と豊かな食生活を送っていたようです。



遺跡と観光客

三内丸山遺跡 大型堀立柱建物と観光客 三内丸山遺跡で想定復元された大型堀立柱建物。柱の根本にいる観光客と比べるとその大きさが分かります。後ろに見えるのは子供の墓の跡で空調の整ったドームで保護しています。

高床倉庫

三内丸山遺跡 高床倉庫の遠景 三内丸山遺跡にある大型堀立柱建物から見た堀立柱建物(高床倉庫)の光景。中央に見える山は八甲田山。5000年前も同じような光景が広がっていたのでしょうか。

三内丸山遺跡の光景

三内丸山遺跡の光景  青森市の三内丸山遺跡の光景。調査・発掘された結果をもとに当時の光景を復元している。遺跡内には住居跡や大型建造物跡の他、子供の墓や大人の墓、ゴミ捨て場等が発見されています。

三内丸山遺跡の歴史


 「三内丸山遺跡は約五千年前に栄えた縄文遺跡」と言われてもなかなかイメージが湧いてこないと思います。そこで簡単な年表で整理してみました。
 歴史的に三内丸山遺跡は石器時代に日本で花開いた縄文文化の後半に形成された集落跡です。世界的に有名なエジプト文明やメソポタミヤ文明とほぼ同時期に出現しています。この頃の世界の気温は最後の氷河期が1万年ほど前に終わり、以後上昇を続けちょうどピークを迎えた時期(約6千年前に気温上昇のピークを迎えています)で、平均気温は2度ほど高かったといわれてます。その後気温は寒冷化し現在の気温となりますが、三内丸山遺跡が放棄された年代と寒冷化が進んだ時代がほぼ一致していることから、三内丸山遺跡の終焉と地球の寒冷化は密接な関係があるのではないかと推測されています。


  • 三内丸山遺跡の歴史
※古代の歴史区分は国や学者により諸説あり明確化されていない部分も多く、石器時代や青銅器時代の区分も地域によって異なるので、上の年表はあくまでも参考程度に留めておいて下さい。



遺跡保存までの歴史

 三内丸山遺跡はもともとは県営の野球場が建設される予定地でした。青森県も従来よりそこに大規模な縄文遺跡があるということは認識していたのですが、いざ工事に着手すると縄文時代最大級の集落跡であることがわかってきたのです。当初の計画では工事と共に調査も行いその記録を残したうえで遺跡は取り壊し、もしくは埋め殺しし(正式な名称は「記録保管」といい一部の考古学者からは「公共事業遂行の為に貴重な遺跡の破壊を許可する悪法」ともいわれています)、野球場を建設する予定でした。しかし調査が進むにつれ記録保管で済まされる程度の価値、規模の遺跡なのか?一部の専門家や識者が青森県に事実を投げかけ問題提起します。とはいえ野球場の建設はすでに始まり一部の遺跡はすでに破壊・撤去処分していますし、多額の税金も投入されてしまっている状態です(三塁側のスタンドはほぼ完成状態でした)。しかもマスコミのほとんどが遺跡の重要性については報じておらず世論もさほど問題視してなく、騒いでいるのは一部の識者だけといった状況です。青森県は考古学上重要な価値がある遺跡と認識してはいても、すでに多額の税金を投入してしまった野球場建設を中止すことなどできるわけもなく「野球場建設は中止しない」と正式なコメントまで発表しています。これはある意味当たり前の話で、税金を投入してしまった事業を中止するには納税者を納得させるために、使ってしまった税金以上の大義名分が必要であり、当時青森県サイドはまだ三内丸山遺跡は考古学上大きな価値はあっても世論や納税者を納得させるだけの力はないと判断していたのです。
 そんな時に発見されたのが「大型堀建柱跡」です。その詳細は別ページで紹介していますが、世界でも類を見ない巨大な木造建設物跡がみつかったというニュースは瞬く間に日本中を駆けめぐり青森県はおろか全国のマスコミや国民が三内丸山遺跡の存在を知り、世論は一斉に保存の方向に傾きます。この全国的な動きをいち早く察知した青森県は野球場建設中止・遺跡保存の方向に方針を急転換し三内丸山遺跡は今に残されているのです。いってみれば「大型堀建柱跡」は三内丸山遺跡を救い世に知らしめた張本人なのです。
 通常税金を投入した事業を廃止するなどしたら行政や責任者はマスコミ、市民、議会などから一斉に袋叩きにあうのが普通です。それが三内丸山遺跡に伴う野球場建設中止では大規模な遺跡があるにもかかわらず事業着手した青森県の当初の考えや責任を追及する動きはほとんど見られませんでした。三内丸山遺跡における大型掘建柱跡の発見は三内丸山遺跡の保存を決定づけるとともに、事後に発生するであろう責任追及や過失追求の動きを一掃し納税者の記憶から忘れさせるほどインパクトのあるものだったのです。

 なお余談となりますが、この時県が途中で建設をやめた野球場はプロ野球の試合が開催可能な設備と規模を持ったもので、建設途中で取り壊しとなったことから、青森県にはプロ野球の試合が開催できる野球場は2016年まで存在せず、2017年まで29年もの間プロ野球の試合が開催されることはありませんでした。


三内丸山遺跡の特徴


 三内丸山遺跡は縄文時代最大規模の遺跡として有名ですが、それなら具体的になにがすごいのでしょうか?入場料が無料なところでしょうか?たしかに入場料が無料なところもすごいのですが2019年4月より有料となりました)、三内丸山遺跡のすごさ・・つまり特徴はもっと別の所にあります。
 「特徴・すごさ」のキーワードは規模と期間です。従前まで縄文時代の人々は50人くらいで集落を形成し、その場所で獲物が少なくなれば別の場所に移動する生活をしていたと考えられていました。つまり土器という煮炊きが可能な便利な道具を得ていたとはいえ生活内容は外国の石器時代とあまり変わらないと考えられてきたのです。
 ところが三内丸山遺跡では約500人前後の人間が約1500年間に渡って生活していた事が判明しました(集団墓地があることは世代交代を繰り返し定住生活を営んでいた証)。ちなみに日本を代表する古都 京都の歴史は1200年で三内丸山遺跡の方が期間は長いのです。しかも大型掘建柱建物に見られるような高度な土木建築技術も持ち合わせています。これは人々が様々な作業を分業し循環型の生活(農耕)も取り入れていたことを意味します。500人の人間が一年間生活するのに必要な食料は少なく見積もっても猪に換算すると5100頭、鮭だと73000尾にもなります。これほどの頭数を捕まえるのは困難ですし、仮に捕らえることができたとしても、そんな生活をしていたら周辺の資源はすぐに枯渇してしまいます。つまり500人もの人口を支えるには小さな面積で効率よくカロリーが摂取できる穀物類の栽培が必要条件となるのです(ただし、三内丸山遺跡の発掘調査では晩年の地層からは猪やカモシカといった大型動物の骨の出土は極端に少なくなり、兎やムササビといった小動物の骨が多くなっていることから大型動物の資源が枯渇していたと推測されています)。
 三内丸山遺跡が眠りから覚めたおかげで縄文時代が脚光を浴びるようになり調査研究も進みました。今では集落の周辺には栗を植え採取していたことも判明しました。また縄文前期にはエゴマ、ヒョウタン、緑豆、ゴボウなどがすでに栽培されていたことが確認され、後期になるとヒエや米、蕎麦、麦などの報告事例も出てきますし、排泄場所跡からは植物に起因する寄生虫の卵が大量に検出されており、比較的人口密度の高い集団が農耕を行っていたと考えられています。三内丸山遺跡のすごさ。それは考古学の常識を粉々に砕き新しい道を切り開いたところにあるのかもしれません。なお一般的に農耕=稲作と勘違いされる傾向にありますが、本項で述べている農耕とは稲作を含めた作物全般の栽培です。


縄文人の暮らし

 従前までは原始的な狩猟民族と考えられてきた縄文人ですが、三内丸山遺跡の発掘によりその常識は大きく覆されました。まず幾層にもわたって積み上げられたゴミ捨て場は多くの縄文人がそこで長い期間(1500年近く)生活してきた証ですし、多数見つかった墓は世代交代を繰り返していた証となります。つまり縄文人は三内丸山の地で定住生活をしていたことになります。また竪穴式住居の内部には円筒状の石が置かれているものもあり、家族で祈りを捧げる祭壇のような役割を果たしていたと考えられています。大きすぎて非実用的な翡翠の装飾品や土偶などから推測するに自然の恵みに感謝する精霊信仰のようなものもあったのかもしれません。食べ物も現在より温暖だった為、多種多様な魚介類や動植物が採れ、足りない分を補うために簡易な農耕も行われていました。
 そして縄文人の一番の特徴が「争い」の痕跡が見つからないことです。後の弥生時代になると防衛用の矢倉や柵、堀、そして矢尻や刃物で傷ついた骨が出土するようになりますが、縄文時代の遺跡ではほとんど見つかりません(残念ながら矢尻で傷ついた頭部の骨は見つかった例や、通常の埋設場所とは異なる廃棄ブロックから出土した人骨などはあります)。縄文人はほとんど争いがなく心身共に豊かな文化をもった人達だったのです。