三内丸山遺跡での発見



三内丸山遺跡 全体図 三内丸山遺跡の特徴のひとつに「広さ」があります。実は現在公開されている遺跡跡はごく一部と考えられており、その全容は未だに不明なままです。この為三内丸山遺跡では現在も発掘調査が進められており、発掘された出土品は発掘現場でそのまま保管されているものもありますが、その大部分は「さんまるミュージアム」で展示されています。
 これらの出土品は多数の土器、住居跡や魚の骨、栽培植物がメインですが、北海道や北陸地方との交流・交易を示す重要な遺物も出土しています。


発掘現場


三内丸山遺跡 発掘現場 三内丸山遺跡では縄文時代当時の様子を解明する為に毎年発掘調査が行われています。これらの発掘調査は随時公開されていたり、発掘跡を現地にそのままの状態で公開したりされており、私たち一般の人達も見ることができるようになっています。



発掘調査現場

 三内丸山遺跡における発掘調査の光景。少しずつ丁寧に手堀で掘り下げています。底の方に見えるレンガのような突起物が発見品であり、その多さには素人ながら驚かされます。なお手前に見える大きな突起物は木の根で出土品とは関係ありません。

三内丸山遺跡 発掘調査現場


三内丸山遺跡 発掘調査 竪穴住居跡周辺の発掘跡の光景。土器などの出土品とは異なり、建物の遺構などは建物などに移設するのは困難なため、ご覧のように現地で直接公開されています。写真の遺構は野ざらしとなっていますが、多くの貴重な遺構は空調施設の完備された建物で覆われ保管されています。

三内丸山遺跡 発掘現場 こちらは少々古いですが2012年当時の発掘現場の写真で、一般公開されている区域から外れた所にある西側の森の中の発掘現場です。三内丸山遺跡では未だ未発掘の区域が多数あると推定され順次発掘が行われています。

子供の墓

三内丸山遺跡の子供の墓 三内丸山遺跡で公開されている子供の墓の跡。遺構の劣化を防ぐ為、空調の完備されたドームで覆われており、内部には自由に出入りできます。三内丸山遺跡ではこのようにドームで覆われた実際の発掘現場と別の場所に想定復元された構造物の2種類が見学できます。

北盛土

三内丸山遺跡 北盛土  三内丸山遺跡で保全されている北盛土。土器の破片が埋まっています。北盛土は生活廃棄物の処分地だったと考えられており、壊れた土器や貝殻、魚の骨等が発見されています。ここからの出土品で当時の食生活が推測できというわけです。なおこの北盛土も空調の効いたドームに覆われています。

南盛土

 こちらは三内丸山遺跡の南側で発見された「南盛土」。断面から突き出ているのが廃棄された土器等のかけらです。約1000年もの間生活破棄物が捨てられていた為、廃棄物が地層のように積み重なっています。なお南盛土も発掘現場そのものがドームで覆われています。

三内丸山遺跡 南盛土


三内丸山遺跡の謎


 数多くの出土品から様々な事が発見されてきた三内丸山遺跡。しかし調査が進むと新たな発見と共にいくつかの不可解な点も判明してきました。本項ではこの三内丸山遺跡における謎とその仮説をご紹介していきます。

1.多すぎる土器
  三内丸山遺跡の人口は住居跡から勘案すると多くても500人前後が生活していたと考えられていますが、この人口に対して出土する土器の数が異常に多いことが確認されています。また土器は煮炊き用の他、祭りの道具としても使用され使用後は壊され廃棄されると考えられていますが、三内丸山遺跡では完全な形で残された土器も多数発見されています。このことから三内丸山遺跡は土器の制作場で、作製された土器は近隣の集落に供給されていたのではないか?という仮設も考えられています。


2.三内丸山は縄文文化の交易拠点
 三内丸山遺跡では実に多くの道具や加工品が発掘されていますが、その原料のほとんどが青森では産出せず、遠方より持ち込まれたものであることが分かっています。例を挙げると久慈市の琥珀、秋田のアスファルト、新潟県の黒曜石等で北海道や沖縄方面の産物も見つかっています。また前述した土器同様、人口に対する出土品多さから、三内丸山は海外を含めた全国から材料を輸入し、加工して出荷する交易都市だったのではないかという説もあります。いずれにせよ日本各地からの産物が集まる交易拠点としての機能を持っていたことは間違いないようです。


3.集落は35pの倍数
 三内丸山遺跡で見つかった主要遺構の寸法は35pの倍数という間隔で見つかっており(大型堀立柱の柱の間隔は4.2m(0.35m×12)、また高床式建物の寸法も等間隔ではないが35pの倍数となっています)」、このことから当時は35pが物の長さを測る尺度だったことが推測されています。


4.子供の墓は家の内?
 三内丸山遺跡では子供の墓の数が900基ほど発見されており、その数は大人の墓の4倍以上の数になります。これは三内丸山遺跡に限らず当時の環境が子供にとって非常に厳しいものだったことを物語ってます。この為子供の死にたいする想いは現代人が想像する以上のものがあったようで、子供の墓は住居の入り口や外であっても家のすぐそばに設けられています。また再生への願いが込められているのか円筒土器(女性の子宮を意味すると言われています)に入れられ垂直に埋葬されています(大人は郊外の集団墓地の土中で屈身状態で埋葬されている)。