日本の観光地・宿東北の観光地・宿岩手県の観光地・宿達谷窟毘沙門堂
岩手県の宿

達谷窟 旅行記「姫待不動堂」


・姫待不動堂
 その昔蝦夷の長悪路王は京からさらってきた姫君を窟上流の「籠姫」に閉じこめ花見を楽しんでいました。姫君は逃げ出したが悪路王は瀧で待ち伏せし再び捕らえられてしまいました。この瀧が後に「姫待瀧(ひめまちのたき」と呼ばれるようになり、後年不動堂が建てられます。これが姫待不動堂の縁起です。
 なお姫君が再び逃げ出さないように姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けたとされる岩が「髢石(かつらいし」と呼ばれ、達谷窟から平泉方面に向かってすぐのところにあります。

・悪路王
 悪路王とは悪路(悪い道)の王という意味で蝦夷の指導者「アテルイ」と同一であるという説もある。
 毘沙門堂縁起によれば『およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女子供を掠める等の乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来ない。そこで天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は窟に隠り守りを固めた。
 延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。』となっている。
 
姫待不動堂

達谷窟の姫待不動堂。悪路王の言い伝えが残る「姫待瀧(ひめまちのたき)」から移されたので姫待不動堂の名前がつけられている。祀られているのは桂材の一木彫りの不動明王で岩手県の文化財に指定されている。
姫待不動堂


達谷窟の境内。二本の杉の間に見えるのお堂が姫待不動堂と呼ばれるお堂で蝦夷の悪路王にまつわる言い伝えが残されている。なお右手の奥に見えるのが金堂(講堂)。
達谷窟の境内
坂上田村麻呂伝説
 東北地方には坂上田村麻呂の言い伝えが実に数多く残されています。そして蝦夷の大将であったアテルイは野蛮で乱暴者として紹介されています。そもそも東北の人々からすれば田村麻呂は征服者の大将であって、どちらかと言えば忌み嫌われる立場の人間でアテルイは故郷の為に戦った人物で悪者扱いされているのには少々合点が行きません。これらはどのような理由なのでしょうか?
 ある郷土学者は当時の大和朝廷が、征服した東北の民を懐柔するために、英雄であるアテルイの悪評を流したうえで心の拠り所となる寺社を積極的に建立したからではないかと推測しています。大航海時代に西洋諸国がアジア諸国にキリスト教を普及させた後、植民地化していったのと同じような手段です。また現代においては韓国や中国が世界中で「日本ディスカウント(価値を貶める)」運動を展開しているのと似ています。
 そして寺社の建立とともに中央の人間を東北に移住させ、さらに神格化させた田村麻呂を東北の民に語り継いでいったというのです。田村麻呂自身すぐれた武将であったと共に神仏を厚く信仰する人徳者だったので東北の民(蝦夷)も比較的容易に受け入れたのでしょう。またアテルイは蝦夷の為に必死に戦った人物ですが大和朝廷が流布した悪評によりいつしか野蛮で乱暴者というイメージがすり込まれていったのです。以上のお話はあくまでも仮説ですが、達谷窟の姫待不動堂に登場する悪路王の言い伝えももしかしたら大和朝廷が流布した風説によって生まれたお話なのかもしれません。
達谷窟のおすすめスポット一覧
達谷窟ってどんなところ? 達谷窟毘沙門堂 境内の光景 辨天堂 岩面大仏 姫待不動堂 達谷窟とはこんな所です
平泉のレンタサイクル 平泉のバス


     
著作権情報