日本の観光地・宿>東北の観光地・宿>岩手県の観光地・宿>達谷窟毘沙門堂 | ||||||||||||||||||||
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姫待不動堂 達谷窟の姫待不動堂。悪路王の言い伝えが残る「姫待瀧(ひめまちのたき)」から移されたので姫待不動堂の名前がつけられている。祀られているのは桂材の一木彫りの不動明王で岩手県の文化財に指定されている。 |
達谷窟の境内。二本の杉の間に見えるのお堂が姫待不動堂と呼ばれるお堂で蝦夷の悪路王にまつわる言い伝えが残されている。なお右手の奥に見えるのが金堂(講堂)。 |
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坂上田村麻呂伝説 東北地方には坂上田村麻呂の言い伝えが実に数多く残されています。そして蝦夷の大将であったアテルイは野蛮で乱暴者として紹介されています。そもそも東北の人々からすれば田村麻呂は征服者の大将であって、どちらかと言えば忌み嫌われる立場の人間でアテルイは故郷の為に戦った人物で悪者扱いされているのには少々合点が行きません。これらはどのような理由なのでしょうか? ある郷土学者は当時の大和朝廷が、征服した東北の民を懐柔するために、英雄であるアテルイの悪評を流したうえで心の拠り所となる寺社を積極的に建立したからではないかと推測しています。大航海時代に西洋諸国がアジア諸国にキリスト教を普及させた後、植民地化していったのと同じような手段です。また現代においては韓国や中国が世界中で「日本ディスカウント(価値を貶める)」運動を展開しているのと似ています。 そして寺社の建立とともに中央の人間を東北に移住させ、さらに神格化させた田村麻呂を東北の民に語り継いでいったというのです。田村麻呂自身すぐれた武将であったと共に神仏を厚く信仰する人徳者だったので東北の民(蝦夷)も比較的容易に受け入れたのでしょう。またアテルイは蝦夷の為に必死に戦った人物ですが大和朝廷が流布した悪評によりいつしか野蛮で乱暴者というイメージがすり込まれていったのです。以上のお話はあくまでも仮説ですが、達谷窟の姫待不動堂に登場する悪路王の言い伝えももしかしたら大和朝廷が流布した風説によって生まれたお話なのかもしれません。 |
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