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奥の細道に登場するスポット一覧

奥の細道



 奥の細道とは後の世に「俳聖」と呼ばれる松尾芭蕉が1689年、46歳の時にみちのく行脚にでた際の紀行文です。奥の細道を俳句集と勘違いしている人も多いようですが、正確には俳句が多く記された紀行文で、その内容は芭蕉が詠んだ俳句の見事さもさることながら、記された紀行文からは当時の人々の生活を知ることができる重要な資料のひとつとなっています。そして奥の細道に織り込まれている数々の俳句は300年以上経った現在でも多くの人に親しまれているのです。なお芭蕉の旅の目的については松尾芭蕉が忍者の里である三重県伊賀市の出身であったことから、実は芭蕉は忍者で東北地方の大名を偵察する為の旅だったとか金山を探し出す為の旅だとか諸説ありますが、平安時代の歌人「西行法師」の足跡をたどった「枕歌」巡りの旅であったというのが通説になっています(枕歌とは古歌に詠み込まれた諸国の名所旧跡のこと)。


 奥の細道はその名から東北地方の紀行文のように聞こえますが実際のルートは江戸から宮城県松島、岩手県一関を経て日本海側の山形県鶴岡に出てからは新潟、北陸と海沿いを進み、最後は敦賀から大垣へ進むという全行程2400km、150日間の一大紀行だったのです。ただし本ページで今回紹介するのは世に名を残す名歌が多く生まれた松島から平泉、鶴岡にかけてのルートです。一般的に奥の細道の神髄は白河の関以北から山形県の日本海に出るまでにあるといわれており、今回ご紹介するルートはまさに奥の細道の真骨頂ともいえるルートなのです。





奥の細道 ルート

奥の細道をたどる旅(紹介している月日は全て旧暦です)

松島
松島 松尾芭蕉の弟子である曾良が記した日記によると3月27日に江戸を出て松島に到着したのは5月9日。松島は旅の目的のひとつであり「旅立ち」の条で「松島の月まづ心にかかりて」と記しています。あまり知られていませんが芭蕉は塩釜から舟で松島入りしています。松島においてはその景色に感動し「扶桑第一の好風」と賞したうえで「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」と記し歌は残してません。芭蕉がたどった塩釜〜松島の航路は現在も運行している人気路線ですので芭蕉にちなんで海路から松島入りするのも面白いかもしれません。なお芭蕉が松島のあまりの美しさに思わず詠ったとされる「松島やああ松島や松島や」の有名な俳句は後生の作り話といわれています。

平泉
中尊寺 金色堂 5月13日に平泉入りし、藤原三代の史跡を訪ねている。義経最後の地や五月雨の降るなか中尊寺の光堂も訪ね有名な歌もいくつか残しています。なお詳細は別途「奥の細道 平泉」を参照。

尾花沢
山形の紅花(ベニバナ) 江戸で知り合った俳人で商人でもある旧知の仲「清風」を訪ね6月17日から26日まで滞在し、この間清風ら地元俳人達と交流を深める。またちょうど見頃を迎えた尾花沢の特産品紅花についても紀行文に記している。なお尾花沢の紅花は一時期人工着色料におされ衰退したものの再び栽培が行われるようになり、芭蕉が尾花沢を訪れた7月上旬頃(現在の暦)には見事な紅花畑を見ることができます。

山寺
山寺 立石寺 5月27日に立ち寄った有名な「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ山形の古刹。詳細については別途「奥の細道 山寺・立石寺」を参照。

最上川
最上川 山寺から尾花沢方面に戻り立ち寄ったのが最上川中流に位置する船着き場である「大石田」。ここでは5月28日から30日まで滞在し地元俳人らの歓待を受け、その時詠んだ句が「五月雨をあつめて涼し最上川」。蛍舞う初夏の頃に吹く最上川の涼風を詠んだものだが、後に「五月雨を集めて早し最上川」に修正しています。

出羽三山
出羽三山 五重塔 出羽三山は歌枕にも数多く登場する東北の霊場で芭蕉にとっても外すことのできない場所でした。芭蕉はここに6月3日から9日まで7日間滞在し、祓川や五重塔羽黒権現に参拝し、修験道姿で残雪残る月山にも登頂し月山権現にも参拝しています。なおこの地で知り合った地元のアマチュア俳諧師「露丸」は芭蕉に心酔し、この3年後江戸の芭蕉を訪ねていますが、さらに足を伸ばした京の地で客死してしまいます。このとき芭蕉はその死を悼み「当帰より哀れは塚のすみれ草」という追悼の句を残しています。

松尾芭蕉について


 松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師。東北地方を中心に旅行した際の紀行文「奥の細道」を残した人物です。1644年伊賀上野の下級武士の次男として生まれ藤堂家に仕えますが、このときの主人で芭蕉の2歳年上である藤堂良忠が文学や遊芸を好む人物だった為、芭蕉も俳人としての才能に目覚めはじめます。しかし芭蕉のブレーンであった藤堂良忠が病で亡くなると芭蕉の動静も一時不明となります。数年後江戸で新風俳人として名をなしますが、その一方で漂泊の旅に出ては紀行文を記し俳句の材料としていました。
 その芭蕉が俳人としてまた漂泊の旅の集大成として最後の旅に選んだのが「奥の細道」なのです。
 なお松尾芭蕉の本名は「松尾甚七郎」といいますが、俳諧師としての地位を確立した1682年に深川のほとりの草庵に転居したさい芭蕉の株を贈られ庭に植えたことから「松尾芭蕉」と名乗るようになりました。
 最後に余談となりますが全国を漂泊した健脚の松尾芭蕉ですが、ある持病に悩まされており奥の細道でも持病が悪化し「持病さへおこりて、消入計(きえいるばかり)になん」という句を残してします。この芭蕉を悩ませた持病とはなんであろう現代人も多くの人が悩まされている「痔(切れ痔)」だったのです(芭蕉は痔の他に疝気(せんき=腹部の疼痛)も患っていました)。




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