中尊寺 旅行記 「金色堂」



 世界遺産中尊寺の金色堂はおよそ800年前に造られ、その後一度も焼失することなく当時の姿を今に伝える国宝建造物第一号です。建物は漆の上から金箔を張った阿弥陀堂で金銀・螺鈿(らでん)・蒔絵で装飾された堂内部の須弥壇の下には初代の清衡公、二代の基衡公、三代の秀衡公の棺と四代泰衡の首級が安置されています。金色堂の装飾品の中には夜光貝の螺鈿細工など日本国内では手に入らないものも多数有り、平安時代の平泉は中国や朝鮮などとも交易をしていた国際都市だったことが裏付けられています。
 また讃衛蔵は中尊寺の資料館となっており、奥州藤原氏の遺宝や仏像を初めとして、中尊寺に伝わる国宝や重要文化財などが3000点余り収容され、まさに世界遺産となった平泉黄金文化を象徴する建物となっています。

拝観時間(讃衛蔵共)
 3月上旬〜11月上旬まで8:30〜17:00、11月上旬〜2月末まで8:30〜16:30  
 注:中尊寺本堂等一般施設は拝観自由で無料。

拝観料 大人 800円、 高校生 500円、中学生 300円、小学生200円  ※団体割引有り

アクセス
 金色堂は中尊寺境内地にあり、位置的には一番奥まった所に位置しています。なお中尊寺へのアクセスは別途「中尊寺へのアクセス・行き方」を参照。 


目 次

金色堂
覆堂
金色堂のミイラ
奥州藤原氏とは




中尊寺 金色堂

金色堂


中尊寺 金色堂 中尊寺金色堂のレプリカ。実際の金色堂は撮影禁止なので本HPでは紹介することができないのですが、平泉町の隣町にある奥州市の「えさし藤原の郷」で金色堂が復元されているので掲載してみました。平安時代から現代にいたるまでこのようなお堂が平泉の地に建っているわけです。

須弥壇

中尊寺金色堂 須弥壇 金色堂内に安置されている須弥壇。須弥壇とは本尊を安置する場所で仏の領域とされている場所です。藤原三代のミイラはこの 須弥壇の下に納められています(注:写真は「えさし藤原の郷」にある復元品です)。

中尊寺 金色堂

讃衛蔵

中尊寺 讃衛蔵  讃衛蔵は他有名寺社における宝物殿に相当する保管庫で、平安仏教の美術品や各お堂の本尊などを見ることができます。蔵内にある数々の仏教美術品はまさに必見の価値ですが入館料が必要となります。なお入館料を払えば讃衛蔵と金色堂の両方見ることができます。また讃衛蔵内は温度、湿度が調整されており、少々蒸し暑くも感じることもあります。

経堂

中尊寺 経堂 経堂は「中尊寺経」(お経)を納めていたお堂。経典そのものは現在讃衛蔵に納められていますが、旧覆堂とともに平泉の浄土文化を長年にわたり守り続けてきた建物です。場所的には金色堂の奥に建っているため、金色堂への拝観料を払わないと見ることはできませんが、経堂付近は中尊寺境内でもっとも紅葉が美しい所のひとつでもあります。



※中尊寺経とは正しくは紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)といい。紺色に染めた紙にお経の文句が一行ごとに金字と銀字で交互に書写(しょしゃ)されています。このお経が最初に納められたお寺が平泉(ひらいずみ)の中尊寺と考えられていますので、一般にこれを中尊寺経と呼ばれています。なお一切経とは経(きょう=仏さまの教えを書いたもの)・律(りつ=信者が守るべき規則)・論(ろん=仏さまの教えを解釈〈かいしゃく〉したもの)など仏教の書物(経典〈きょうてん〉)を集大成(しゅうたいせい)したもの。
中尊寺 金色堂

覆堂


  中尊寺の金色堂は風雪からお堂を護る為、金色堂よりひとまわり大きなお堂(覆堂)に覆われています。多くの雑誌やHPではこの覆堂=金色堂として紹介されている為少々誤解が生じやすくなっています。

新覆堂

中尊寺金色堂 正面に見える建物が金色堂新覆堂といい、金色堂はこの内部に納められています。金色堂といえばこの新覆堂の写真が掲載されていることが多く、多くの方に見覚えのある建物だど思います。金色堂内は写真撮影が禁止の為、HP等ではなかなか見ることはできないのですが、上述のような見事な金色の阿弥陀堂が納めされています。

旧覆堂

中尊寺 旧覆堂  こちらは旧覆堂。現在の覆堂が建てられるまで金色堂を覆っていた(納められていた)お堂で鎌倉時代に建てられたと推測されています。中には自由に入ることができ、壁や天上には平泉や中尊寺、藤原氏にちなんだ絵が飾られています。この 旧覆堂は1288年の金色堂が修復された際に簡易な覆屋根がかけられ、その後いくどかの増改築を経て現在の姿になったと考えられており、昭和38年に現在の覆堂が建てられるまで金色堂を守ってきました。「五月雨の降り残してや光堂(ひかるどう)」と歌い残したかの松尾芭蕉が見たのも、この旧覆堂にあった金色堂で世界遺産の中心的存在の金色堂を長年守ってきたまさに中尊寺の歴史を伝える由緒ある重要な建物のひとつなのです。




中尊寺 金色堂

金色堂のミイラ


 日本で一番有名なミイラといえば中尊寺金色堂に安置されている藤原4代のミイラがあげられます。これらのミイラは藤原清衡、基衡、秀衡のものがそれぞれ「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇に納められ、泰衡の首級が参拝者から向かって左側に位置する右壇に納められています。しかしこれらのミイラは正確には「ミイラ化した遺体が納められている」という表現の方が正しいようです。現在までの調査でも人工的にミイラとしたのか自然とミイラ化したのかはよく分かってないそうです。また泰衡の首級については寺伝などの資料から長い間泰衡の弟である忠衡の首とされていましたが、1950年に行われた調査の結果、顔に九箇所の刀傷があり額に晒首の釘跡があったことから藤原氏4代目泰衡の首であることが判明しました。鎌倉幕府が大逆者である泰衡の首を金色堂に安置するわけがありませんから、野ざらしにされた泰衡の首を家臣か誰かが持ち帰り金色堂に納め、幕府からの追求を逃れる為に泰衡と意見が衝突し兄に討たれた忠衡の首であると称したのかもしれません。ちなみに800年の眠りから覚め「中尊寺蓮」の花を咲かせている蓮の種はこの泰衡の首おけの中にあったものです。
 なお中尊寺金色堂に納められている藤原三代のミイラを一般の方が見ることはできませんが、こちらのサイトで1950年の学術調査の際の写真が掲載されています。

奥州藤原氏

 
 奥州平泉の地で浄土文化を開花させた藤原一族とはそもそもどのような一族なのでしょうか?それを紐解くには藤原氏の前に奥州の覇者であった安倍氏の時代まで遡らなければなりません。


奥州藤原氏の系図 紫で囲まれた人物が奥州藤原氏の当主

奥州藤原氏の家系図


中尊寺 金色堂


安部氏とは?
 阿倍氏は9世紀頃に岩手県の北上平野(北上川を中心にひらけた現在の盛岡市から平泉にわたる肥沃な地域)を中心に勢力を拡大していた俘囚(ふしゅう)と呼ばれる豪族です。俘囚とは大和朝廷に従属の意を示した蝦夷といわれていますが、阿倍氏は7世紀中期に大和朝廷の命を受け東北地方から北海道にかけて遠征し蝦夷を服従させた「阿倍比羅夫」の一族ともいわれています。阿倍比羅夫が東北地方を服従させた際に監視役として一族を東北地方に残し、それが長い年月を経て蝦夷と交わりやがて蝦夷の統領となったというわけです。
 上記はあくまでも数ある仮設のひとつですが、安倍一族は9世紀初めには蝦夷の統領として信頼を集め、かつ大和朝廷とも官位を授かるほどのパイプを持った地方貴族のような存在だったことは間違いないようです。

武家藤原氏
 奥州藤原氏直接の祖となる藤原経清は武家藤原氏の出身。武家藤原氏は平将門討伐や大百足退治で有名な藤原秀郷(俵藤太)や西行法師などを輩出した軍事貴族でその血筋をさらに遡れば藤原摂関家、藤原(中臣)鎌足、さらには古事記に登場する天児屋命につながる名家。藤原経清は宮城県亘理町の国司を務めており、その昔陸奥の守を務めた源氏に従って奥州入りしその後、陸奥の地にとどまり亘理の地を治めていたものと推測されています。

前九年の役(1051年〜1062年)
 蝦夷の統領として君臨する阿倍氏に対して朝廷側の勢力として戦を仕掛けるのが源氏の統領で陸奥の守でもあった「源頼義」です。足掛け12年に渡るこの戦いが有名な「前九年の役」です。この戦の経緯は強大な勢力を背景に阿倍氏が朝廷をないがしろにした為とか源氏が当時の力と富の象徴であった馬と金の産地である奥州を手中に収めたかったからとか色々推測されていますが、実際のところはどちらも理由としては正解のようです。この蝦夷(阿倍氏)VS朝廷(源氏)戦では藤原経清は源氏側の人間でありながら阿倍氏の娘を妻にしていたこともあり阿倍氏側に付きます。
 阿倍氏と源氏の戦は阿倍氏の連戦連勝が続きます。その一方で阿倍氏は朝廷に配慮し陸奥国府まで攻め入ることはせず、戦を回避しようと源頼義に対して恭順の意を示すのです。もともと兵力のほとんどを失っていた源頼義は阿倍氏のこの行動を好機とし表面上は阿倍氏と友好関係を保ちつつ水面下では周辺諸国に協力を求めます。この協力要請に応じたのが長年に渡り阿倍氏と同盟関係にあった清原氏です。清原氏は現在の秋田県南部横手、湯沢方面を治めていた俘囚で、清原氏が源氏側についたことにより形勢は一気に逆転し、清原氏、源氏の連合軍は阿倍氏を厨川の柵(現在の盛岡市北東部)まで追いつめ勝利を収めるのです。

戦後処理
 戦の後、阿倍氏の頭領、貞任は深手をおった体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されましたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ります。また経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首されてしまうのです。
 そして藤原経清の妻で貞任の妹にあたる女性は戦利品として清原家の頭領武貞の妻となり、経清の遺児(後の藤原清衡。奥州藤原氏の祖)は武貞に養子として引き取られるのです。
 またこの前九年の役では朝廷の采配により阿倍氏の領地はすべて清原氏のものとなり源頼義は陸奥の守から伊予の守に任ぜられ東北の地を去ることになります。これは朝廷が源氏が東北の地を手中にし勢力が増すのを警戒した為ともいわれていますが、父の敵に母と共に引き取られた遺児、そして多くの犠牲を払いながらなにも得るものがなかった源氏、途中から参戦し漁夫の利を得た清原氏。これらは複雑に絡み合って後の後三年の役の伏線となっていくのです。

後三年の役(1083年〜1087年)
 前九年の役で奥州の覇者となった清原武貞には三人の子供がいました。長男で正室の子供である真衡、前九年の役で戦利品として得た阿倍氏の女性の連れ子で養子とした清衡、そして阿倍氏の女性との間にできた家衡です。武貞の死後清原家を継いだのは当然の事ながら長男で正室の子供である真衡です。ところが真衡には跡取りとなる子供がなかったので平氏一門の男性を養子とし、さらに源頼義の娘を養女とし2人を結ばせます。つまり真衡の跡取りには平氏一門の者がつき、その後も統領には清原家の血が流れていない者がなるわけです。これには清原家一族の中でも異論がでました。また真衡自身少々尊大な態度をとることがおおく、やがて一族の長老である吉彦秀武が兵を挙げます。秀武は清衡、家衡兄弟を味方に引き入れますが、当時陸奥の守として赴任していた源義家(頼義の嫡男)が真衡の味方をしたため清衡、家衡兄弟は敗れてしまいます。ところが戦に大勝した矢先に真衡は突然病死してしまいます。真衡の死後義家の采配により岩手県の北部を家衡の所領とし南部は清衡の所領と定めます。清原家の血が流れていない清衡が肥沃な土地である岩手県南部を所領としたことを不満とした家衡は突如兄清衡の館を襲撃します。清衡はからくも生きのびましたが、母(家衡の母でもある)や妻、子供すべてを殺されてしまいます。清衡は今度は義家の協力を経て金沢の柵(現在の横手市)に籠もった家衡を兵糧攻めとし最後は火攻めで滅ぼし勝利を得るのです。
 なおこの後三年の役で清衡は清原氏の所領をすべて引き継ぎ名字も父の性である「藤原」に改め、ここに蝦夷(阿倍氏)と武家藤原氏双方の血を受け継いだ奥州藤原氏が誕生するわけです。また陸奥の守で清衡の味方をした源義家は朝廷に今回の戦を報告しましたが朝廷は義家の私戦であるとし恩賞や戦費の支払いを拒否しました。源氏は後三年の役でも得るものが無かったわけです。

平泉の浄土国家
 数奇な運命の末清衡は奥州の覇者となるわけですが、その代わりにすべての者を失っていました。父や叔父は源氏に殺され、母は父や叔父の敵である清原氏への戦利品とされたうえに息子清衡の妻や、孫と共に自らの子供に(清衡の父違いの弟)に殺されています。清衡自身も敵である清原氏の養子となり、なんの希望も持てない青春時代を過ごし、さらに戦の際には父の敵である源義家の助けをかりて弟を討っているのです。
 奥州の覇者となった清衡は多くの血が流された平泉の地を本拠地と定め犠牲となった人々を供養する浄土国家を築いていきます。30代までは波乱に満ちた人生だった清衡も後半は静かで平和な人生を過ごします。このゆとりある人生の中で後の世界遺産となる平泉の浄土文化が育まれていくのです。

奥州藤原氏の滅亡
 約100年に渡り平和な日々を過ごし、浄土文化を育んできた奥州藤原氏ですが12世紀になると中央で権勢を握ってきた平氏に陰りが見え始め、やがて源平合戦へと発展します。この時奥州藤原氏は平氏、源氏に匹敵する国力、兵力を持っていましたが最後まで中立を保ちます。やがて源平合戦で勝利を収めた源頼朝は弟義経をかくまったという理由で奥州に出兵します。100年に渡り平和な暮らしをしてきた平泉の軍勢と源平合戦を戦い抜いた歴戦の板東武者とでは力の差は歴然で、ここに奥州藤原氏は源氏の前に滅亡することとなるのです。そして源氏は源頼朝の代になってやっと念願の奥州の地を手中に収めることができたというわけです。

その後の藤原氏
 平泉の藤原氏は滅びますが三代目秀衡の弟である秀栄は青森県の十三湊を所領としていた為、奥州合戦の戦火を逃れその後、頼朝から所領も安堵され十三氏として存続します。しかし1229年に安倍貞任の末裔を称する安藤氏に滅ぼされてしまいます。こうして奥州藤原氏は歴史の表舞台から姿を消すのですが、滅びたとはいえ奥州藤原氏及び阿倍氏は東北地方の武士にとってはブランドのようなもので、後に藤原氏や阿倍氏の末裔を名乗る武将達が次々と現れます。しかしそのすべてが眉唾もので根拠のないものとなっています。いずれにせよ江戸時代を迎えるまでのあいだ藤原氏、阿倍氏は300年近くに渡って東北地方の英雄的存在で、その後も東北人の誇りとして語り継がれているのです。


前九年の役から奥州合戦までの勢力相関図
奥州藤原氏の相関図



中尊寺 金色堂