立石寺の歴史
松尾芭蕉をはじめ訪れる人々を魅了し続けてきた東北地方を代表する古刹のひとつ「立石寺」。日本仏教の祖ともいわれる
最澄が点した「不滅の法灯」があることでも有名です。
本ページでは松尾芭蕉や不滅の法灯などがどのようにして立石寺に関わってきたのかその歴史をご紹介していきます。
平安時代
寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で比叡山延暦寺3代目座主である円仁(慈覚大師)が開山したとされ、出羽の国を訪れた慈覚大師は土地の主よりこの地を買い上げ寺領とし、「堂塔三百余をもってこの地の布教に勤めた」とされています。また開山の際に本山である比叡山延暦寺から不滅の法灯が分けられました。
なお開山の時期、開祖については諸説ありますが、平安時代初期の開山で円仁と関係の深い寺院であることは確かとされています。また慈覚大師円仁については別途「
立石寺の岩−慈覚大師円仁伝説」の項でも紹介していますのでご参照下さい。
鎌倉時代
鎌倉時代には幕府の庇護を受け寺は栄えますが、後に兵火により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗されます。
室町時代
延文元年(正平11年・1356年)、源氏の斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻ります。
14世紀になると山形盆地の覇権を競う天童氏と伊達氏との争いに際し伊達氏側に味方した立石寺は1521年に天童氏の焼き討ちにあってしまいます。この際不滅の法灯も焼失してしまいますが、1543年最上義守(
伊達政宗の外祖父)により再建される際に比叡山延暦寺から再度分燈を受けます。また元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、こんどは逆に立石寺から分燈されています。
江戸時代(松尾芭蕉)
元禄二年(1689)。
俳諧師であった松尾芭蕉は旅の途中で立ち寄った山形県の尾花沢市で立石寺の事を聞き、立石寺へ足をのばし、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しました。
明治時代〜現在
明治維新後、政府の神仏分離令(神仏判然令)により、日枝神社など寺社内の神社は立石寺から切り離されるなどしましたが、約33万坪の境内の中に大小30余りの堂塔が残され現在に至っています。
不滅の法灯とは天台宗の宗祖伝教大師最澄が点して以来1200年間消えたことがない天台宗の象徴的な灯で比叡山では根本中堂で点されています。
この不滅の法灯は天台宗のお寺が創建される際などに分灯されており東北地方では立石寺の他に
中尊寺などにも分灯されています。
このうち立石寺の不滅の法灯は平安時代に分灯されたものが室町時代に戦火で焼失し、比叡山から再分灯されたものです。また比叡山延暦寺は織田信長の焼き討ちの際に不滅の法灯を焼失していますが、延暦寺再建の際には立石寺より不滅の法灯を分灯されています。このように比叡山と立石寺の不滅の法灯は長い年月を経てお互いに分灯しあい現在に至っているのです。
立石寺と松尾芭蕉
立石寺といえば松尾芭蕉の俳句で有名ですが、元々松尾芭蕉は立石寺へは立ち寄る予定はありませんでした。
松尾芭蕉の旅の目的は尊敬する古の歌人である
西行法師の足跡をたどる事と悲運の武将源義経縁の地である
奥州平泉の地を見てみたかった事といわれています。
松尾芭蕉は旅の途中で尾花沢に住む知り合いの家でお世話になりますが、そこで「立石寺という古刹がある」と聞き、立石寺まで足をのばしその地で感銘を受け「閑さや
岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しましたとされています。
もし尾花沢で立石寺の事を耳にしなければ松尾芭蕉はそのまま出羽三山方面に行ってしまい、立石寺には立ち寄る事もなく名句も生まれなかったという事になります。