弘前城



弘前城 弘前城(ひろさきじょう)は古都弘前市のシンボルとなっているお城で日本一の桜の名所としても有名な所です。弘前城一番の見どころといえばやはり下乗橋から見た天守。実際訪れると知名度の割には意外と天守の規模が小さく拍子抜けする人も多いようですが、この天守は日本に12箇所残されている現存天守(江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)の1つで日本でもっとも北にある非常に貴重な建造物です。他にも西濠沿いにある桜のトンネル、パンフレット等でおなじみの下乗橋、その他江戸時代に建てられた楼門、櫓など見どころ満載です。観光ルートは車を駐めた場所にもよると思いますが弘前城南側の追手門から場内を散策するのが一般的なコースとなっています。また公園内には至る所に案内地図が立てられているので案内地図を見ながら思い思いに散策すればよいでしょう。

※弘前城の天守は石垣補修の為2015年より本丸広場側へ移動され現在下乗橋からは見ることができません。補修工事の詳細については別途「弘前城の工事」のページを参照。


公式HPhttp://www.hirosakipark.jp/


弘前城の入場料


有料エリア 本丸・北の郭

料金 大人320円、小人100円  弘前城植物園共通入場券  大人520円、小人160円

有料期間 4月上旬〜11月下旬 期間外は無料

有料時間 9:00〜17:00(閉門)  

備考:5月最終日曜日は入園無料


弘前城の観光に要する時間


 弘前城がある公園内を一通り散策するには約2時間ほど必要。また園内にある植物園や博物館も含めて全て観光する場合は半日は必要となります。弘前市には桜の時期以外でも楽しめる観光名所や史跡が多数ありますが、そのほとんどが弘前駅から弘前城の間に集中していますので、これらを効率よく巡るにはレンタサイクルが便利です。

※弘前城を組み入れた青森県の観光モデルコースは別途「青森空港」「大館能代空港」及び「新青森駅」「弘前駅」のページを参照。



弘前城の城主


 弘前城は初代津軽藩主「津軽為信」公が1603年に築城に着手し、翌年為信公が亡くなると共に工事は一時期中断しますが、1609年に津軽藩2代目の津軽信枚が工事を再開し1611年に完成します。完成当時は城のある地名にちなんで鷹岡城と呼ばれていましたが、1627年落雷により本丸や天守が焼失し、時を同じくして領内では地震や災害も多発していたので、縁起直しの意を込めて名を鷹岡城から弘前城に改めます。なお現在の天守は落雷による焼失後の約200年後、9代藩主津軽寧親により1810年に再建されたものです。


歴代 城主

初代 - 為信 津軽氏の祖で弘前城の築城に着手した翌年亡くなる(1600年- 1607年)

2代 - 信枚 為信の三男で現在の弘前城を完成させる(1607年 - 1631年)

3代 - 信義(のぶよし)(1631年 - 1655年)

4代 - 信政(のぶまさ)(1656年 - 1710年)

5代 - 信寿(のぶひさ)(1710年 - 1731年)

6代 - 信著(のぶあき)(1731年 - 1744年)

7代 - 信寧(のぶやす)(1744年 - 1784年)

8代 - 信明(のぶはる、のぶあきら)(1784年 - 1791年)

9代 - 寧親(やすちか)(1791年 - 1820年)現在の天守を築造する

10代 - 信順(のぶゆき)(1820年 - 1839年)

11代 - 順承(ゆきつぐ)(1839年 - 1859年)

12代 - 承昭(つぐあきら)(1859年 - 1869年)津軽藩最後の藩主




津軽為信

 津軽為信(1550年〜1608年)は津軽藩初代藩主。当時北東北の大半を治めていた南部家に反旗を翻し、津軽地方を平定した戦国の風雲児。生まれや津軽平定の経緯については津軽氏、南部氏両者の記録に大きな食い違いがあり、はっきりしない部分も多いが名城弘前城の築城や秀吉の小田原征伐時に秀吉の義兄にあたる近衛家の家紋の入った籠に乗りわずか数十名で参陣し皆を驚かせたなど戦国武将らしいエピソードが多数残っています。
 生まれは奥州藤原氏の末裔であると主張していますが、実際のところは南部氏一族の久慈氏を祖とする説が有力。また津軽平定の経緯も南部氏は1590年に南部氏津軽郡代の石川政信(南部氏26代当主南部信直の弟)を毒殺し津軽地方を奪ったもので、秀吉の惣無事令に抵触すると主張していますが、津軽氏は1571年に石川高信(南部信直の父)を急襲し、その後10年近くかけて津軽地方を平定したと主張しており双方大きな食い違いがあります。いずれにせよ乱世を駆け抜けた英傑であることにはかわりはなく、地元津軽地方では郷土の英雄として親しまれています(ちなみに領地を奪われた南部側の人々には(主に八戸市周辺)少々受けが悪いようです)。



弘前城豆知識:これを知っていれば弘前城巡りも一段と面白くなる・・・・かも


弘前城は四神相応の地

 弘前城は津軽為信の軍師であった沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)の「四神相応」の思想(北(玄武、地勢は丘陵)、東(青龍、地勢は流水)、西(白虎、地勢は大道)、南(朱雀、地勢は湖沼))によって建築場所が選ばれたと伝えられており、当時東には清流土淵川、西には岩木山に通じる街道がありました。その後城の建築と共に北の丘陵にあたる部分には当時としては用いられる事の無かった「四」(死に通じる為忌み嫌われた文字)の字を用いた「四の郭」を設け、さらに北側の亀甲門を正門とします(北は鬼門の方角なので正門とすることはあまり例がなかった)。これにより城の弱点である北側を敵にとっての死地にしたというわけです。また南の湖沼にあたる部分は当時湿地帯だったところを掘り下げ大きな溜池とします。この溜池は「大溜池」と呼ばれ現在は弘前大学付属病院を中心とした広大な地域に相当し、歴史の流れと共に軍事上の防御拠点、農業用水、景勝地、ゴミ・死体処理場、訓練場と目まぐるしく変遷していきます。この他陰陽道に基づき城の回りに寺社を移し人や金が集まりやすくしたうえ軍事上の防御拠点にするなど(城の南西部(裏鬼門)にある禅林街はその最たるものです)、弘前城及びその周辺は当時の陰陽道、易学の粋を結集して作られているのです。


武田流軍学者 沼田面松斎

 沼田面松斎は祖を西行法師奥州藤原氏と共にする「俵藤太秀郷」にもつとされ、はじめは細川藤孝に仕えていましたが、後に諸国を放浪し津軽の地で若き津軽為信に軍師として召し抱えられたとされています。武田流軍学者で陰陽道・易学・天文学に通じ、諸国の事情にも詳しかった沼田面松斎は軍略をもって軍師として活躍されたといわれ、弘前城築城時に提案した四神相応の地や津軽為信が秀吉に謁見する際、嵐に遭い舟が難破しかけたときに為信の刀を海に投じ龍神に祈り嵐を鎮めたなど陰陽道に通じる逸話も数多く残されています。また戦国の余韻が燻っている江戸時代初期に町と城を一体化した画期的な国造りをすすめるなど知識人としての一面も併せ持っていました。そのほか津軽為信が高禄の知行を与えようとした時、古参の家臣達に配慮して辞退し、低い禄のまま仕えつづけたという逸話も残されていますが、津軽家の家臣団の中では残されている記録が少なく少々ミステリアスな人物でもあります。



弘前城(弘前公園)周辺の美味い物・祭りイベント


粥の汁(けのしる)
粥の汁(けのしる) 津軽地方の小正月に作られる郷土料理。根菜やこんにゃくを味噌仕立てで仕上げる。郷土色豊かな料理。具材は様々だがぜんまいとふきは欠かせない食材。
津軽そば
津軽そば つなぎに大豆の粉を使用したそば。煮置きし熟成させる等通常のそばとは全く違う工程でつくられる。根強いファンが多い。
じゃっぱ汁
じゃっぱ汁 鱈のアラを煮込んだ鍋料理。味付けは塩味、味噌仕立てが一般的。津軽地方の冬場を代表する郷土料理。
弘前さくらまつり
弘前さくら祭り 4月下旬から5月の上旬に弘前城公園で行われる桜祭り。毎年たくさんの観光客で賑わう。
弘前ねぶたまつり
弘前ねぶた祭り 8月1日から7日まで弘前市で行われる夏祭り。80台ものねぶたが運行する。
弘前城雪灯籠まつり
弘前城雪灯籠祭 2月中旬に弘前城公園で開催される雪祭り。みちのく五大雪祭りのひとつ。




青森県の観光地一覧


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