岐阜城
営業時間
9:30〜17:30 年中無休 (10月17日〜3月15日までは16:30までの営業)
元旦のみ6:30〜16:30
※期間限定で夜間営業有
料金 大人200円 小人100円 団体割引有り

岐阜城は岐阜市のシンボルである金華山(標高328.9m)の山頂にある日本百名城のひとつに数えられている城で、美濃の蝮と呼ばれた斉藤道三や織田信長が天下布武の拠点として在城したことで有名です。
現在私たちが目にするの岐阜城は1943年(昭和18年)に焼失したものを1956年(昭和31年)に再建したもので1〜3階は信長が街作りをした当時の街並みを再現したものや信長の世界観などが展示され、最上階には麓に広がる岐阜公園をはじめ岐阜市の街並み、市内を流れる長良川の眺望など360度のパノラマが楽しめる展望台となっています。
また天守のすぐ隣には隅櫓を模した岐阜城資料館があり、この資料館はNHKの大河ドラマ「
国盗り物語」の放送を記念して建てられたもので、1975年(昭和50年)4月に完成しました。
※本ページに記載されている情報については変更されている場合もありますので、ご利用の際は必ず現地の表記をご確認ください。
公式HP→
岐阜市ホームページ
目 次
岐阜城のロープウェイ
資料館
岐阜城の歴代城主・歴史
岐阜城の呪い
登山
岐阜城と月の写真
岐阜城の御朱印
岐阜城の観光に要する時間
岐阜城周辺の宿泊施設
岐阜城は標高329mの金華山の山頂にあり、通常山頂までは「ぎふ金華山ロープウェイ」を利用して行く事となります。ぎふ金華山ロープウェイは金華山麓の岐阜公園に山麓駅があり山頂の山頂駅までは約4分の行程で、道中はワイドビューのゴンドラで金華山の四季の自然美や眼下の長良川の景観、そして岐阜の街並みを眺めながらの快適な遊覧となります。なおロープウェイの山頂駅から岐阜城までは徒歩で8分ほどとなっています。
ちなみに景色を景色を楽しむのであればロープウェイの後ろの方がよいと云われていますが、ロープウェイへの乗り込みは並んだ順番となっています。
運行・所要時間
片道約4分
通常時
毎時15分間隔(毎時00分・15分・30分・45分発)
混雑時
毎時10分間隔(毎時00分・10分・20分・30分・40分・50分発)
営業時間
年中無休で運行しており、営業時間は季節により異なります。
3月16日〜5月11日 9:30〜18:00
5月12日〜10月16日 8:30〜18:00
10月17日〜3月15日 9:30〜17:00
※上記の他 夏期はナイター営業しています。
料金
片道630円 往復1100円
混雑状況
混雑時はロープウェイが10分間隔の運行になるので、通常の土日祝であれば1〜2本待てば乗れますが、GWや夏休み、3連休などの繁忙期には40分近く待たされる事もあるそうです。
岐阜城の資料館は前述してあるとおり天守閣のすぐ隣に整備されており、天守閣が織田信長を中心としたものを説明・展示しているのに対して(例:信長の街作りの資料や説明など)、岐阜城資料館は斉藤道三や織田信長といった歴代城主の解説や戦国時代から江戸時代にかけての武具や手裏剣やまきびしといった忍者が使用したとされる武器などを中心に展示されています。
中世11世紀に築城された岐阜城。時代の流れとともに城主も目まぐるしく変遷してきました。本項では11世紀の築城から現在までに至る歴代の城主や歴史についてご説明していきます。
1201〜1204年頃
鎌倉幕府の重臣であった「二階堂行政」が稲葉山(現在の「金華山」)に砦を築く。その後二階堂一族の稲葉氏が砦主となったことから金華山は稲葉山と呼ばれるようになる。その後1300年代前半に廃城となる。
15世紀中頃
美濃守護代を務めていた斎藤利永が、稲葉山城を修復して居城とする。
1525年
斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉(長井長弘の家臣で斉藤道三の父)が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。稲葉山城は長井氏の支配下となる。
1533〜1554年
1533年に斉藤道三が城主となり、城の本格的な改修が行われる
1554年
斉藤道三 城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する(それ以前は「長井利政」と称していた)。
1556年
斉藤義龍、長良川の戦いにより父道三を討ち取る。
1561年
斉藤義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる
1564年
斎藤氏の家臣であった
竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げるが半年後に城を奪還する。
1567年
織田信長が美濃を攻略し拠点を稲葉山城に移す。それまで「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」と改め稲葉山城も新たに造営され岐阜城に改名される。
その後信長は10年ほど在城し楽市楽座の保護などを行い城下町の復興に力を注ぎ、岐阜城下は大いに賑わう。
1576年
安土城の築城に伴い織田信長が長男の織田信忠に岐阜城を譲る。
1582年
本能寺の変で織田信忠が自刃すると信忠の家臣で斉藤道三の息子である斎藤利堯が岐阜城を掌握するが、
清洲会議で岐阜城を含めた美濃国を織田信孝(信長の三男)が引き継ぐ事が決まり斎藤利堯は織田信孝に城を明け渡す。
1583年
やがて織田信孝は秀吉と対立するが、後ろ盾の柴田勝家が賤ヶ岳の戦いでが敗れると信孝も岐阜城を秀吉に明け渡わたす。
池田恒興が美濃13万石となると、岐阜城主には恒興の長男である池田元助が就任する。
1584年
小牧・長久手の戦いで池田恒興と池田元助が討死すると、家督を継いだ恒興の次男である池田輝政が岐阜城主となる。
1591年
小田原攻めのあと、豊臣秀勝(秀吉の甥(姉の子))が岐阜城主となる
1592年
豊臣秀勝が死去すると、織田秀信(三法師 織田信忠の嫡男、織田信長の孫)が美濃・岐阜13万石として岐阜城主となる。
1600年
関ヶ原の合戦の際には織田秀信が西軍についた為に関ヶ原の前哨戦で東軍に岐阜城を攻められ落城、翌年廃城となる。
1910年
復興(模擬)天守閣が建造される。これは日本初の観光目的の天守(模擬天守)といわれています。
1943年
天守閣が焼失する。
1956年
現在の天守閣が再建される。
2011年
岐阜城跡が国の史跡に指定される。
岐阜城は「美濃を取れば天下を取れる」といわれたほど豊かな美濃の中心部に位置し、経済・防御の観点からも優れた山城でしたが関ヶ原の合戦後廃城となっています。
これは歴代の岐阜城城主が短命であったうえに、堅固な山城であるにも関わらず何度も落城していることから(歴史上7回落城している)岐阜城には呪いがあると噂され、徳川家康に嫌われたからだと言われています。
さて天下人の徳川家康も恐れた「
岐阜城の呪い」とはいかなるものなのでしょうか?
岐阜城は斉藤道三の居城となる前は道三の主君にあたる長井氏の居城でしたが、道三は長井氏を殺して岐阜城の城主になったといわれています。その道三も最後は長男の義龍によって討たれますが、道三は死の間際、「三年を経ずしてお前の五体は生きながら地獄に落ち、稲葉山の城に入るものは一人も生かしておかぬ」と、呪いの言葉を吐いたと伝わっています。
道三を討って岐阜城城主となった義龍は4年後の1561年に急死しており、以後岐阜城の城主は城主であった期間が短く短命であった者が多かったことから、これをもって斉藤道三の呪い「岐阜城の呪い」と噂されるようになりました。また歴代の城主達は長井氏・道三・義龍・信長の幽霊に悩まされたともいわれています。
ではこの本当に道三以降の岐阜城歴代城主は短命だったのでしょうか?以下に岐阜城の歴代城主の概略を記していきます。
斎藤義龍
斎藤道三の嫡男。父道三を討ち城主となるも4年後に急死。享年35歳。城主であった期間4年。
斎藤龍興
斎藤義龍の嫡男。竹中重治らに城を奪われる。半年後奪還するも織田信長によって再び落城。龍興は朝倉家に身を寄せるが一乗谷の戦いで戦死。享年26歳。城主であった期間6年。
織田信長
斎藤道三の娘婿。京都本能寺で自害。享年49。城主であった期間10年。
織田信忠
織田信長の嫡男。本能寺の変の際に二条新御所で戦死。享年26。 城主であった期間6年。
織田信孝
織田信長の三男。秀吉と対立し賤ヶ岳の戦いの後、信雄(信長の次男)の命令によりで自害。享年26。城主であった期間1年。
池田元助
池田恒興の嫡男。小牧・長久手の戦いにおいて父子共に討死。享年26。城主であった期間1年。
池田輝政
池田恒興の次男。後に三河吉田城主を経て姫路藩初代藩主となり
姫路城を修築した事で有名。姫路で死去。享年48。城主であった期間7年。
豊臣秀勝
豊臣秀吉の姉(日秀尼)の子。秀吉の朝鮮出兵の際に大将として朝鮮に出陣したが巨済島にて病死。享年23。城主であった期間1年。
織田秀信
織田信忠の嫡男(信長の孫)。関ヶ原の合戦後高野山へ行くが、後に追放され1605年に死亡。享年26。城主であった期間8年。
このように歴代城主達は織田信長と池田輝政以外は、20代から30代半ばで早逝していますし、その殆どが討ち死や自刀といった非業の死であり、人生を全うできたのは唯一池田輝政くらいです。
これは果たして世に噂される道三の呪いなのでしょうか?呪いかどうか判断するのは貴方次第です。

岐阜城のある金華山には馬の背登山道、七曲がり登山道(大手道)など10の登山道が整備されています。
麓から山頂までの所要時間は1時間ほどで地元の子供達の遠足でも行くような山ですからさほど危険な道ではないと思いますが、標高300m以上ある山の登山道であることに変わりはありません。普段平坦な道しか歩いた事のないような方の場合は少々きつく感じるかもしれません。
数ある登山道のうち初心者向けは「めい想の小径」及び「七曲がり登山道」。このうち七曲がり登山道はもともとは岐阜城の大手道だった登山道で、もっとも登りやすい道といわれロープウェイが開通するまで一番多く利用され、信長を初めとする古の武将達も歩いたという歴史を体感できる登山道です。
また最短コースではありますが最も険しいとされるのが「馬の背登山道」(
上の写真が「馬の背登山道」の光景)で、「この道は、断崖や難所が多く危険です。「老人・幼児には無理です」」と看板にも強く警告されています。
初めて登山道を歩いて岐阜城に行く場合、道中分岐点や合流点が多い一方で案内板も整備されており、迷う心配は少ないと思いますが、万が一に備え登山道の地図は用意しておいた方が無難だと思います。
登山道の地図は
公式のパンフレット(PDFファイル)をご参照下さい。
夜間照明された岐阜城と月が重なっている写真はとても幻想的で多くの人を魅了してきたことで有名ですが、どのようにして撮影しているのでしょうか、筆者自身岐阜城の月は実際に撮ったことはありませんので、あくまでも参考程度に留めて聞いてほしいのですが、基本的には一眼レフのカメラと望遠レンズがあれば撮影は可能ですが、カメラに対する専門的な知識が無いと少々難しいそうです。
その上で撮影するタイミングですが岐阜城と満月が重なる時間帯は月の出から2時間前後。例えば18時が月の出とするなら、20時過ぎくらいまでは重なります。それ以降は月が上がり過ぎてしまい重なることはありません。また月が出たばかりで高度が低いときは城から離れた場所(直線距離でだいたい6kmほど)で重なって見え、月の高度が上がっていくにしたがい城に近づいて行かないと重なりません。
そしてピントは月にあわせf値は最大にして撮影すると、よくテレビで雑誌で見る岐阜城と月の重なった幻想的な光景が撮影できるのだそうです。
以上が岐阜城の月の写真を撮影する要領ですが、繰り返しになりますが筆者自身、実際に岐阜城の月の写真は撮影したことがないのであくまでも参考程度に留めておいて下さい。
日本の主なお城では観光客用の記念スタンプの他に、御城印と呼ばれる記念証も用意されている場合があります。
御城印自体は一般的に御朱印が世に知られるようになった1990年代から販売が始まり、テレビやマスコミなどで紹介される機会も増え、新たな城巡りの楽しみ方として静かなブームとなっています。
そして岐阜城においても登城記念として2種類の御朱印(御城印)をもらうことができますので、その概要をご説明していきます。
販売場所:金華山ロープウェイ売店
通常御朱印
職人手すきの美濃和紙を使用し以下の三種類の朱印が押され和紙に「岐阜城」の文字が記されています。
織田木瓜 織田家の家紋
天下布武 信長が用いていた朱印
永楽通宝
信長の旗印。中国の明で鋳造された通貨ですが、信長は永楽通宝の意匠を旗印としていました。
金の御朱印
金色に輝く「金華山 岐阜城」の文字に加え、以下に記した岐阜城に縁のある武将の家紋が描かれています。
織田信長(織田木瓜)
斎藤道三(二頭立波)
明智光秀(水色桔梗)

岐阜城の観光に要する時間はその人の趣味趣向によって異なってくるとは思いますが大体以下の通りとなっています。
ロープウェイ〜岐阜城 ロープウェイ4分+山頂駅から岐阜城まで8分 合計片道約12分
登山道を利用して岐阜城に行く場合 所要時間約1時間強
岐阜城天守周辺の観光に要する時間 所要時間約1時間強
仮に行きはロープウェイで帰りは登山道を利用した場合、岐阜城の観光に要する時間は2時間12分となり大体2時間30分あれば大丈夫ということになりますが、上記の時間はあくまでもおおよその目安であり昔の武具や歴史に興味のある方は岐阜城の観光に要する時間も長くなるでしょうし、登山道も周囲の景色を楽しみながら散策すると1時間以上時間を要すると思います。上記の観光に要する時間はあくまでも目安程度に留め、皆さんなりの旅の行程を考えてみて下さい。
岐阜県岐阜市を中心とした温泉・旅館・ホテル等の宿を予算に合わせて選べます。
白川郷 下呂温泉 岐阜城