醍醐寺の桜



 醍醐寺は豊臣秀吉が楽しんだ「醍醐の花見」でよく知られている花見の名所です。醍醐の地は平安時代の頃より「花の醍醐」と称されていた桜の名所で、秀吉はこの地に近畿各地からつぼみのついた桜の木を700本ほど取り寄せ醍醐山全体に植樹したうえで、世に名高い醍醐の花見を行います。以来醍醐寺は桜の名所として広く人々に親しまれるようになり、毎年4月の第2日曜日には秀吉の華やかな花見を忍んで豊太閤花見行列も行われています。


桜の見頃


醍醐寺の桜 醍醐の桜は彼岸の頃に咲き始めるかわづ桜をかわきりに、しだれ桜、ソメイヨシノ、山桜、八重ザクラ、そして、大紅しだれ並びに金堂わきの大山桜と合計約1000本の桜が約3週間かけて楽しませてくれます。一番の見頃はソメイヨシノが満開となる4月初旬とされこの頃になると夜のライトアップもおこなわれ醍醐寺がもっとも華やぐ季節となります。
 なお花見と言えば弁当がつきものですが醍醐寺では境内の飲食が禁止されているので当然のことながら弁当やお酒を飲みながらの花見見物はできません。しかし境内には屋台や茶屋があつまった地区があるのでそこで和菓子を食べながら休憩したり懐石料理を楽しむことができます。


秀吉の花見


 「醍醐の花見」は慶長三年(1598年)秀吉が亡くなる半年前に行われた盛大な宴です。この花見には醍醐山の山全体に各地から取り寄せた桜が植えられ、秀吉は正室の北の政所や側室の淀殿、そして全国の諸大名ら約1300人と豪華な宴を楽しんだのです。現在上醍醐の入り口にあたる女人堂から約15分ほどの所に秀吉が醍醐の花見を行ったとされる場所があります(奥への立ち入りは禁止されています)。意外と標高の高い所なので秀吉達は醍醐の桜を高台から見下ろすようなかたちで楽しんだものと推測されています。
 なお醍醐の花見の工事は旧暦の2月13日に着手し20日には完了させるという突貫工事で、当時植えられた700本もの桜の木は400年以上経った現在、残念ながら残ってはいません。


秀吉と醍醐寺


 秀吉は数々の寺社の復興を行った人物ですが醍醐寺への支援は特に有名です。現在見ることができる建造物のほとんどが秀吉の援助によって再建(下伽藍の建物は応仁の乱で五重塔以外は焼失してしまいます)されたもので、他にも醍醐の花見など秀吉なくして今日の醍醐寺を語ることはできません。ではなぜ秀吉は醍醐寺にこれほどまで肩入れをしたのでしょうか。
 以下のお話は裏付けるものがなくあくまでも俗説として伝わっているものですが、当時の醍醐寺の住職であった80代座主義演は代々関白職を務める二条家の出身で、義演の父や義兄も関白職を務めています。一方秀吉は天下を手中に収めたものの武士の出身ではないため征夷大将軍となり幕府を開くことができませんでした。そこで目をつけたのが関白職です。古の藤原摂関家のように武士ではなく貴族として天下を治めようとしたわけです。秀吉と二条家との間にどのようなやりとりがあったかは不明ですが、義演の義兄は関白職に就いた翌日職を辞し秀吉が関白に就任しています。このことに秀吉が恩を感じたのかもしくは密約があったのか定かではありませんが、二条家出身の義演が住職を務める醍醐寺に秀吉が手厚い支援を行ったことと秀吉が関白の座についた事とは密接な繋がりがあるのでは・・・と推測されているのです。