知覧特攻平和会館とは



知覧特攻平和会館 写真 知覧特攻平和会館は、薩摩の小京都とよばれる一方で戦争の歴史を語り継ぐ町として知られる知覧にある戦史資料館で特攻隊員の慰霊の為に植えられた約130本の桜が見事な知覧平和公園の一角にあります。
 読み方は「ちらんとっこうへいわかいかん」といい、名前は知覧というその地名に由来しています
 戦前から戦中にかけて知覧をはじめとした鹿児島県には本土の最南端という防衛上の理由から旧日本軍の基地が数多く作られ、太平洋戦争末期には神風特別攻撃隊 通称「特攻隊」の基地として数多くの若者達が飛び立って行きました。
 知覧はもっとも多くの特攻隊員が飛び立っていった基地のひとつで、知覧特攻平和会館では戦争の愚かさ、悲惨さ、そして平和の尊さを今に伝えるべく、若くして南海の海に散っていった若者達の遺影や遺書、手紙の他、太平洋戦争に関する展示物や資料が展示されています。


入館料 

 大人500円(ミュージアム知覧との共通券 600円)

 子供300円(ミュージアム知覧との共通券 400円)


会館時間 9時〜17時(最終入館時間は16時30分) 年中無休



※本ページに記載されている情報については変更されている場合もありますので、ご利用の際は必ず現地の表記をご確認ください。 


公式HPhttps://www.chiran-tokkou.jp/



特攻隊とは


知覧特攻平和会館 写真 特攻隊とは「神風特別攻撃隊」の略称で、一般的には太平洋線末期に旧日本軍によって行われた航空機による戦死することを前提とした体当たり攻撃の事をいいます。
 太平洋戦争も末期になってくると圧倒的な物量を誇るアメリカ軍を前に各戦線が破綻し、旧日本軍では以前から構想のあった「特攻作戦」が本格的に議論されるようになり、1944年10月から始まったフィリピン戦で本格的に採用されました。
 その後フィリピンは陥落し1945年3月に沖縄戦が始まったことを受け旧日本軍は鹿児島県からの特攻作戦を開始します。
 知覧基地からは1945年4月1日の初出撃を皮切りに6月11日まで特攻作戦が続けられ439名の若い命(17歳から32歳の男性)が散っていきました。
 特攻隊は知覧基地以外にも九州各地や山口、沖縄、台湾などの飛行場から出撃しており、陸軍の特攻作戦全体で戦死した特攻隊員は1036人です。なお太平洋戦争における特攻作戦による犠牲者の数は資料によって差異があり確定はされていませんが、おおよそ海軍2531名、陸軍1417名の計3948名とされ、知覧特攻平和会館には沖縄作戦で戦死した陸軍特攻隊員1036人(知覧から出撃したのは439名)の遺影や遺品などが展示されてある他、特攻隊員や関係者達の証言や映像を見ることができます。

 特攻隊による戦果は「44カ月続いた戦争のわずか10カ月の間にアメリカ軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機よる成果であった」とされ心理的にもアメリカ軍に大きな影響を与えましたが、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の前には焼け石に水のような状態であったことや、戦艦や空母といった大型艦船に対しては損傷を与えることはできても沈没させることは難しかったこともあり、戦局は変えるまでには至りませんでした。



特攻の母

 特攻の母こと「鳥濱トメ」は知覧基地の近くで食堂を営み後に陸軍指定の食堂となった事から特攻機で飛び立つ多くの若者達の面倒を見てきた人物。
 鳥濱トメは出撃する特攻機を見送り、特攻隊員がトメに託した手紙を代理で投函したり、隊員の出撃の様子を自ら綴った手紙を全国の家族のもとへと送り続ける等し多くの隊員達から慕われていました。
 戦後は知覧基地跡地に慰霊碑を建て慰霊を続けていました。その後鳥濱トメの活動が本やテレビなどで取り上げられるようになり「特攻の母」と呼ばれるようになりました。
 多くの特攻隊員が訪れた鳥濱トメが営んでいた富屋食堂は現在資料館「ホタル館 富屋食堂」として復元され特攻隊員やトメさん縁の遺品や写真が展示されています。


 知覧特攻平和会館からホタル館富屋食堂までは鹿児島交通「特攻観音入口」バス停から乗車し「中部(南九州市)」で下車。 知覧特攻平和会館から歩いた場合は30分ほど。



展示品


 知覧特攻平和会館では、中央展示室を中心に当時の知覧基地の様子が分かる模型や特攻隊員らと交流のあった方達の証言や映像が展示されている他、特攻隊員の遺影1,036柱の遺書や手紙、辞世の句、写真などの遺品が約4,500点、そして海底から引き上げられた零戦や旧日本陸軍の傑作期「疾風」などが展示されています。
 館内に展示されている展示品の量は膨大な数にのぼり、すべてに目を通すのは時間的に難しいですが、一通り館内を巡るだけなら1時間から1時間30分ほど時間を要します。

 これら展示品の数々は非常に胸を打つものが多く、筆者個人的には日本人であるならば一度は見ておく価値のある展示品だと思います。  
 もちろん人によって受け取り方は様々ですから、ある種の恐怖感や怖い(心霊的なものではなく特攻や戦争という行為に対して)と感じる人や「つらくてもう無理。二度と行かない」と思う方もいると思いますが、いずれにせよ旅行気分に浸り軽く浮かれた気持ちで訪れるような場所ではないと思います。



遺書・手紙

 知覧特攻平和会館では、特攻隊員たちが遺した手紙や遺書、辞世の句が展示されています。手紙や遺書は当時軍部を中心に精神論が幅をきかせており、弱音ととらえられるような文言は使用することができませんでしたが、家族や婚約者などに対する思いや感謝の気持ち、国の為に命を捧げる覚悟、戦争に対する覚悟などが綴られており、訪れる人々に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えています。


※知覧特攻平和会館内は写真撮影が禁止されており、本HPでは遺書や手紙をご紹介することができませんが、一部は公式HPで見る事ができます。

https://www.chiran-tokkou.jp/digital_archive/list.html



遺影

 遺影は陸軍沖縄特攻作戦で亡くなった1,036名の隊員(このうち知覧から出撃したのは439名)が、出撃戦死した月日の順に掲示されています。 
 これらの写真のほとんどがまだ若い青年で、なかには明るい笑顔の写真もありますが、出撃前に撮影された最後の写真も多く改めて戦争と平和について考えさせられます。



疾風(四式戦闘機)

 昭和19年(1944年)に制式採用された大戦後半の陸軍主力戦闘機。約3500機生産され襲来するB29の迎撃をはじめ各戦線で活躍し、戦後アメリカによる性能テストでは、「太平洋戦争に登場した日本戦闘機中最優秀機」評価されています。知覧基地では特攻隊の援護や敵機の迎撃、そして時には特攻機としても使用されました。
 知覧特攻平和会館に展示されている疾風はフィリピン戦でアメリカ軍が鹵獲した機体を修復したものが、昭和48年(1973年)に日本に戻ってきたもので現存する機体としては唯一のものとされています。



隼(一式戦闘機)

知覧特攻平和会館 写真 展示物  太平洋戦争時における陸軍の主力戦闘機でその高い運動性能をもって大戦初期は海軍の零戦と並んで連合国の戦闘機を圧倒した名機。知覧基地では前述の「疾風」同様特攻隊の援護や敵機の迎撃、そして時には特攻機としても使用されました。
 知覧特攻平和会館に展示されているのは映画の撮影の為に作成されたレプリカ。



零戦

知覧特攻平和会館 零戦 展示物 写真  海軍の戦闘機なので陸軍基地である知覧では使われませんでしたが、第二次世界大戦中に日本海軍が使用した艦上戦闘機。運動性能や速度、航続距離等が他国の戦闘機を凌駕し、戦争初期は向かうところ敵無しの勢いでしたが、大戦後期に登場した大出力のエンジンを積んだアメリカ軍の新型戦闘機の前には劣勢に立たされました。後継機の開発が遅れた事などから大戦全期間にわたって活躍し、海軍特攻隊にも使用されました。
 知覧平和会館では、実物大の零戦や零戦の模型、写真などが展示されている他、沖縄戦作戦中にエンジントラブルを起こし鹿児島県甑島の手打港の沖約500m、水深35mに海没し、1980年に引き上げられた機体も展示されています。


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