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二戸市 旅行記「九戸城跡と岩屋観音」


九戸城
 九戸城は九戸氏が居城としてきた城で九戸政実が5千の兵で6万の豊臣軍を迎え撃った城。三方を川に囲まれた平山城で、約34万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍の広さだが、現在城の一部(三の丸周辺)は市街地となっています。
 近年は地元有志や自治体による観光PRがすすみ、2017年には有史日本城郭協会(東京都品川区)の「続日本100名城」に選ばれました。

※続日本100名城とは「日本100名城」には選ばれていないものの、同様の歴史的価値があると判断されたものが選ばれます。九戸城跡のほかには福知山城(京都府)や世界遺産の座喜味城(ざきみぐすく)(沖縄県)などが選べれています。

・岩屋観音
 今から四、五百年前に白鳥川が田畑や人家も全て流し尽くす大氾濫を起こしたとき、向こう側の岩崖の上から垂れ下がっていた二本の藤のつるが次々に太くなりやがてロープほどの太さになりました。よく見ると藤のつるの先に木像のようなものが引っかかっており、確かめてみると木像の観音様でした。この観音様を安置したのが今の現在の岩屋観音堂と云われています。

九戸城古戦場まつり
 毎年8月の第一週の日曜日に九戸城跡で開催されるまつりで、従前までは月見を楽しんだ昔を再現する「月見の宴(うたげ)」が開催されてきたが、2013年からは昼間に体験乗馬や流鏑馬(やぶさめ)などのイベントも行うようになった。
地図で場所を確認する
 
二戸市の旅
九戸城跡

岩手県二戸市にある九戸城跡。九戸神社から20kmほど東に行った所にある。1591年に九戸政実がこの城に立てこもり総勢6万人の豊臣勢と戦った。九戸政実の知勇と天然の要塞九戸城は豊臣方の武将達を悩ませたと伝えられている。
九戸城跡
九戸城跡の地図

九戸城跡の地図。九戸城の遺構は現在も至る所に残っているがほとんどが市街地となっている。また地図上で色づけされた部分は公園として開放されており桜の名所となっている。
九戸城跡の地図
二ノ丸跡

九戸城の二ノ丸跡。九戸城の戦いは記録がほとんど残って無く疑問視する説もあったが、九戸政実がだまし討ちにあった後、領民や兵士らは二ノ丸に押し込められ火をつけられたとされる言い伝え通り二ノ丸からは籠城戦を裏付ける火薬や人骨が出土し、現在九戸城の戦いは実際あったものとされている。
九戸城 二ノ丸跡
馬淵川

九戸城跡を流れる馬淵川。川沿いは切り立った断崖となっており、攻め手の豊臣軍は最後まで攻略することはできなかった。光景は三の丸跡付近の光景で現在は市街地となっている。


九戸城跡と馬淵川
大手門付近の光景

九戸城大手門付近の光景。九戸城は難攻不落の平城だが、周囲は小高い丘に囲まれており九戸城を見下ろすことができる。この為、九戸城攻防戦ではちょうど野球場の観覧席のように豊臣方の大軍から見下ろされ、九戸軍は相当のプレッシャーを受けていたと云われている。
二戸城 大手門跡
岩屋観音

白鳥川が馬淵川に合流する地点にある岩屋観音。切り立った崖の中腹に観音様が安置されている。この辺りは現在は市街地となっているが、昔は九戸城の敷地内だったと考えられている。

岩屋観音
九戸政実の乱

九戸一族
 九戸一族は元は南部氏を祖とする南部一族の豪族。一般的には南部氏の家臣ととらえられているが、実際は三戸南部氏を中心とする共同体の一員で戦国大名の一人と考えた方が「九戸の乱」を理解しやすい。現代にたとえるとEUヨーロッパ共同体の議長国が三戸南部氏、構成国のひとつが九戸氏といった感じだ。九戸氏は政実の時代には領内の産業促進や農地開拓に力を入れ本家南部氏を凌ぐほどの勢力を持つに至るが、南部氏の敵である斯波氏との戦の際に和議に応じ、その時斯波氏の娘を政実の弟と結婚させ斯波氏の養子としたことから、南部家当主の南部晴政に謀反の疑いをかけられる(この斯波氏の養子となった人物は中野氏と称し九戸の乱時は南部氏に味方し後に代々南部氏の家老職を務めます)。この時は晴政の娘を政実の弟実親と結婚させ事なきをえるが、晴政の命を受けた南部信直(晴政の従兄弟で晴政の娘と結婚し次期南部家当主に任命されていた)の軍勢と一触即発の所まで問題は発展してしまう。

南部家の相続問題
 その後晴政に男子が産まれると次期当主に任命されていた信直は晴政に疎まれ軍事衝突を起こすまでに至った為、信直は自ら隠居し居城の田子城に引きこもってしまいます。やがて晴政が病死すると嫡男の晴継が当主の座に付くが、晴政の葬儀の時に何者かによって暗殺されてしまいます。この時信直は自ら隠居していたので時期南部家当主の資格は失っており、有力候補として政実の弟実親が浮上してきます(実親は晴政の娘と結婚している)。重臣達が集まった次期当主を決める会議では九戸実親が次期当主に決まりかかりますが、南部一族随一の精鋭部隊である九戸勢の勢力増長を警戒した北信愛をはじめとする南部家家臣団が猛反対し、田子城で隠居していた信直を無理矢理連れてきて次期当主にすえてしまうのです。さらに晴継の葬式時に今度は信直が正体不明の軍勢に襲われてしまいます。この信直襲撃の犯人は不明で信直も無事でしたが、これで南部一族は南部氏、九戸氏の二つに割れ、九戸政実と南部信直の関係も修復不能な域まで達してしまうのです。

津軽為信の謀反
 この頃津軽地方では南部家家督相続の混乱に乗じて津軽為信が謀反を起こします。信直は直ちに津軽為信追討の軍勢を組織し九戸政実にも出兵を要請しますが、この時すでに九戸政実は津軽為信から共闘の誘いを受けており、政実は病気と称して出兵しませんでした。九戸勢が動かず、さらには背後を突かれるおそれが生じた信直は為信征伐を諦め、居城である三戸城へ引き返します。この津軽為信の乱は諸説ありますが、信直は津軽の領土ばかりか津軽地方を治めていた父の高信、弟の政信まで失う事となり、窮地にたたされます。ここで信直が頼ったのが豊臣秀吉です。秀吉による所領安堵は津軽為信に先を越され、津軽地方は失ったものの政実が治める九戸地方も含めた北東北の東半分が南部信直の所領として認められることになったのです。

九戸の乱
 本家と分家の違いはあれど先祖伝来の地が南部氏のものとなった事は九戸氏にとっては絶対に容認できない事で、ここで南部信直と九戸政実の衝突は避けられないものとなりました。この衝突の引き金となったのは伊達政宗が秀吉の奥州仕置きによって領地を失った浪人達や不満を持つもの達に送った一揆を後押しする書状です。この書状は九戸政実にも送られ、奥州各地で一揆の火の手があがると政実も信直に対して攻撃を仕掛けます。俗に言う「九戸の乱」のはじまりです。戦は当初五分五分でしたが南部信直が戦線を立て直すため一度陣を引くと「南部勢が不利」という情報が駆けめぐり、様子見をしていた豪族達は皆九戸勢についてしまいます。これにより南部信直は一気に形勢不利となり秀吉に救援を求めます。秀吉は直ちに九戸政実をはじめとした奥州各地で発生した一揆を鎮圧すべく奥州再仕置き軍を派遣します。この再仕置きは歯向かったものは全て切り捨てるべしとする「撫で斬り令」がだされ、伊達政宗も自ら後押しした一揆勢を皆殺しにして再仕置き軍に加わってしまいます。

九戸城の攻防戦
 奥州再仕置き軍のうち九戸勢に向かったのは蒲生氏郷、浅野長政らに奥州勢を含めた約6万の軍勢で、このなかには九戸政実と同盟関係にあり、南部信直にとっては不倶戴天の敵である津軽為信も参陣しています。伊達政宗や津軽為信といった味方と思われた勢力も敵に回り九戸勢は孤立無援の状態となりますが、それでも九戸城へ立てこもり5千の兵力で6万の豊臣軍を何度も退けます。何度も力責めを試みる蒲生氏郷に対して浅野長政は謀略によって落とすべしと提案します。蒲生氏郷は「天下の豊臣軍が謀略など」と反対しますが、秀吉が「撫で斬り令」を命じていることや氏郷がライバル視している伊達政宗が一揆勢を皆殺しにして平定したこと等を例に出し説得され、最後は浅野長政の案に賛成します。
 謀略の使者には九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚が選ばれ、「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させます。なお薩天和尚もこの時は浅野長政に騙されており、最悪の場合でも城兵や領民は助かるものと信じていました。
 薩天和尚に諭され九戸政実は将兵やその家族、領民の為に豊臣軍に降伏します。豊臣勢は政実が投降してくると直ちに縛り上げ籠に押し込めます。さらに九戸城に攻め入り城内にいたもの全てを二ノ丸に押し込め撫で斬りにし火をかけてしまうのです。九戸政実は奥州再仕置き軍の総大将である豊臣秀次が本陣を張る宮城県三迫の地で一言の弁明も許されず斬首されてしまいます。また騙された事を知った薩天和尚は後日南部氏の菩提寺に行きそこで割腹自殺をしたと云われています。

九戸の乱 その後
 この一連の九戸の乱は豊臣秀吉の天下統一後におきた戦である為、天下を乱した「乱」として位置づけられ、戦も予定外の苦戦を強いられ、最後はだまし討ちという不本意な結果に終わったことから、今後反対勢力が出てくることを恐れた豊臣方の意により事実は隠され続けたといわれています。この為記録もあまり残ってなく詳細な部分は分からないことも多いのですが、領内で善政を行い天下の豊臣軍を相手に一歩も引かずに善戦し最後は領民や家臣のために投降し打ち首にされた九戸政実を地元二戸市や九戸村の人達は郷土の英雄として讃え今に語り継いでいるのです。
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