日本の観光地・宿>東北の観光地・宿>岩手県の観光地・宿>達谷窟毘沙門堂 | ||||||||||||||||||||
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岩面大佛 達谷窟の岩面大佛。源義家公が馬の背に乗り弓張で彫ったと伝えられている。切り立った断崖に彫られており、昔は胴体部分まで彫られていたそうだが、現在は劣化が著しく首から下の胴体部分ははげ落ちてしまっている。しかし下から見上げる光景は圧巻で日本最北の磨崖仏でもある。 |
達谷窟の岩面大佛。日本最北の磨崖仏で前九年、後三年の役で亡くなった人達を弔う為に源義家公が刻んだとされている。切り立った崖の中腹に彫られている。高さ16.5メートル、顔の長さは3.6メートルもある。 |
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源義家 源義家は平安時代後期の武将。八幡太郎義家の名前で有名な源氏の武将で、源頼朝、義経兄弟から数えて5代先の祖先にあたります。後三年の役では奥州で勢力を誇っていた清原氏の内乱に介入し勝利を得ます。その際乱れ飛ぶ雁の群れを見て敵の待ち伏せを見破り撃破した逸話は有名です。その後時の権力者である白河法王に武士の身分でありながら院昇殿を許されますが1106年に68歳で亡くなります。 源頼朝や足利尊氏らの直接の先祖にあたるため、数々の逸話、伝説的物語が語られ神格化されていった源氏の象徴ともいえる武将です。後三年の役の際には「あくまでも清原氏の相続争いに勝手に介入した私戦」という理由で朝廷から恩賞をもらうことができず、共に戦ってくれた東国の武将らに自らの所領を分け与えたことから東国に基盤ができ、後の鎌倉幕府成立の遠因のひとつとなります。 |
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