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湊川神社 湊川神社は神戸ハーバーランドからJRを越えて北側にいった所にある神社。創建は明治時代だが当時の社殿は太平洋戦争の戦火で焼失してしまい、現在の社殿は戦後復興されたもの。 |
湊川神社の光景。神戸の一等地にありながら境内は広く、楠木正成公ゆかりの物を納めた「宝物殿」や結婚式などを行う楠公会館などがある。 |
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楠木正成公戦没地 楠木正成公戦没地。正成公はこの地でわずかな手勢をもって足利勢と戦い16度も合戦を繰り返すが最後に力尽きる。類い希なる軍略の才をもち、天皇に忠節を尽くして散っていった正成公には今でも多くの人に感銘を与えている。 |
徳川光圀公銅像 水戸黄門で有名な「徳川光圀」公の銅像。光圀公は楠木正成の遺徳を讃え「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立て、墓所を再建した。 |
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楠木正成公とはどんな人物? 楠木正成(1294年?〜1336年)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。長年続いた鎌倉幕府も政治腐敗がすすみ、時の天皇であった後醍醐天皇が倒幕運動を進めますが、事前に発覚し後醍醐天皇は河内(現在の大阪市南部)に逃れます。逃避行の道中後醍醐天皇は大きな「楠(くすのき)」の夢を見られ、不思議に思い調べたところ近くに「楠木正成」なる人物がいることを知り、楠正成を呼び寄せ倒幕の協力をお願いします。楠正成は天皇自らの協力要請に感動し以後後醍醐天皇への忠節を誓うのです。その後、後醍醐天皇は幕府に捕らえられ隠岐の島に流されますが、楠正成は本拠地である金剛山で挙兵し幕府軍と戦います。 500人ほどの兵をもって天然の要害千早赤阪城(上城、下城ありますが、ここでは簡略します)に立てこもる楠木正成に対して幕府は30万人もの大軍を送り込みますが、数々の計略を駆使する楠木正成を前に苦戦をしいられ攻略できません。一連の戦は3年近くも続き、いつまでたっても楠木正成を討ち取ることができない幕府に対して愛想を尽かす御家人も多く現れはじめます。そんな時に後醍醐天皇が流刑先の隠岐の島を脱出し伯耆の地で挙兵します。また足利尊氏や新田義貞ら有力武将が次々と後醍醐天皇に味方して挙兵し、ここに鎌倉幕府は終わりを告げるのです。 多くの武将達の協力を得て復権した後醍醐天皇ですが、新政権では貴族を重宝し、多くの血を流し汗をかいた武将達にはわずかな恩賞しか与えなかったので(いわゆる建武の新政とよばれるもの)武将達の不平不満がつのり、やがて足利尊氏を盟主とした勢力が挙兵します。足利尊氏は京の戦いで後醍醐天皇に味方する楠木正成や新田義貞の軍勢に敗れ九州へと逃れますが、足利尊氏に味方する武将は後を絶たずやがて力を盛り返した足利尊氏は大軍をもって京都に攻め上ります。 勢いのある足利勢には勝てないとみた楠木正成は後醍醐天皇にいったん比叡山に逃れるよう進言しますが、この意見は聞き入れられず、天皇の命により湊川で勝ち目のない戦いを挑み散っていくのです。 南北朝の争乱を描いた軍記物「太平記」では後醍醐天皇が島流しに遭っている時期から挙兵し倒幕のきっかけをつくるも、その後は意見を受け入れられず、最後は天皇の命により無謀な戦に出かけ命を落とす悲劇の武将として描かれ前半部分では準主役級の扱いとなっています。 このような楠木正成の生涯は日本人の心に響くものがあるのか明治維新時には尊皇の旗印とされ、自刃の時に誓った「七生報国(意:七回生まれ変わり国(天皇)に報いん)」の語は戦時中のスローガンにも用いられ、日本の歴史に少なからず影響しているのです。 |
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