鶴岡八幡宮の歴史と大銀杏



倒木前の大銀杏 鶴岡八幡宮の歴史はまさに鎌倉の歴史そのものといっても過言ではありません。源頼朝が鎌倉入りして真っ先に手がけたのが鶴岡八幡宮。弟義経の妻 静御前が舞を舞ったのも鶴岡八幡宮、頼朝の血縁が途絶えた場所も鶴岡八幡宮です。
 そして鶴岡八幡宮 大石段の脇に立ち1000年近くもの間、八幡宮の歴史を見てきたのが「大銀杏」です。本ページでは鎌倉の歴史を語る上で外すことのできない鶴岡八幡宮とご神木の大銀杏についてご紹介してみます。


鶴岡八幡宮の歴史


〜平安時代

 源頼義(頼朝や義経から数えて6代前の人物)が奥州の乱(前九年の役)を平定後、出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮から八幡大神を勧請(かんじょう)し1063年に由比ヶ浜辺にお祀りし由比若宮としたのが始まりです。1081年には頼義の子供で源氏中興の祖といわれる源義家が修復を行っています。義家は「八幡太郎義家(八幡様で元服した長男 義家という意味)」とも呼ばれ源氏一族のなかでも特に八幡様に縁のある人物です。


平安時代後期〜鎌倉時代

 1180年頼朝は伊豆で平家打倒の挙兵後、代々源氏の拠点であった鎌倉に入り、真っ先に由比若宮にお参りしその一週間後、社を内陸部の小林郷北山に遷します。これが鶴岡八幡宮の起源です。
 1191年には鎌倉の町を襲った火事により鶴岡八幡宮も焼失していまいますがすぐに再建、上宮と下宮のふたつに分かれた現在の形となります。 
 鎌倉を中心とした関東には源義家や頼朝の父である義朝といった頼朝の直系の祖先に縁のある御家人が多く鶴岡八幡宮は源氏の守り神であるとともに坂東武者の守護神として崇敬を集めます。



室町時代〜江戸時代

 鎌倉時代も終わり室町時代になると鎌倉と共に鶴岡八幡宮も次第に廃れていきますが、やがて江戸時代となり徳川幕府による天下泰平の世になると幕府の庇護を受け大いに発展します。これは当時鎌倉そのものが江の島と共に江戸に近い観光地として知られ大いに賑わったことや、鶴岡八幡宮が武家政治の礎を築いた源頼朝や源氏の統領として神格化されていた源義家らに縁のある寺社であり武士の信仰を集めていたこと、そして源義家が徳川氏直接の先祖であること(これは徳川家(松平家)の主張であり、諸説は色々あります)、などが理由としてあげられます。
 なお現在国の重要文化財に指定されている本宮(上宮)及び若宮(外宮)は江戸時代の1828年に徳川家斉が再建したものです。


明治時代〜現代

 明治時代になると全国のお寺に大打撃をあたえた「廃仏毀釈」の動きは鶴岡八幡宮においてもみられ貴重な仏教施設が失われました。しかし神社としての鶴岡八幡宮は健在で、現代になっても重要文化財や貴重な史跡が数多く残されている観光都市鎌倉の中心として親しまれ人々の信仰を集めているのです。


大銀杏

 
鶴岡八幡宮 大銀杏のヒコバエ 鶴岡八幡宮本宮に向かう石段の左側には樹齢1000年のご神木である大銀杏がありました。このご神木は「隠れ大銀杏」とよばれ鎌倉の歴史を見続けてきた名木でしたが、2010年の強風で倒れてしまいました。しかし倒伏から1ヶ月後には大銀杏があった元の場所からヒコバエが芽吹きはじめました。この為、ただちに何本かのヒコバエの中から生育の良いものを剪定(せんてい)し育てるともに、倒木したご神木を再生可能な高さ4メートルに切断し、元の場所のすぐ脇に据え付けました。この甲斐あって元のご神木からは若布が芽吹き、ヒコバエと共に順調に育っているのです。
 以上のような由来から鶴岡八幡宮の大銀杏は「再生・生命力」のパワースポットとして広く知られるようになったのです。

隠れ大銀杏

 ご神木である大銀杏が「隠れ大銀杏」と呼ばれているのは源頼朝直系の血筋が途絶えるある事件の舞台となったとされているからです。

 1199年源頼朝が急死すると息子の頼家が鎌倉幕府第二代目将軍となります。しかし若くして将軍となった頼家は強引で独断的な判断が多く放漫な振る舞いも多く見られました。頼家は後に重病を患ったのを機に(陰謀説もあります)将軍職を剥奪され弟の実朝が第三代将軍となります。その後頼家は北条氏により暗殺され子供の公暁は寺に預けられることとなり、後に鶴岡八幡宮の別当となります。

 鎌倉幕府第三代将軍 源実朝は1218年右大臣に叙せられます。この為翌年の鶴岡八幡宮での拝賀式は盛大なものとなります。やがて拝賀式も終わりごくわずかな殿上人を従えた実朝は(護衛の随兵はすべて長い石段の下、楼門の先にある広庭で待機していました)石段を下る途中、大銀杏の蔭に隠れていた公暁に暗殺されます。公暁はその夜のうちに「三浦義村」に討たれここで頼朝の直系の血は途絶え、北条氏による執権政治が確立していきます。

 なおこの事件に際しては当日の拝賀式に重要な幕閣である三浦義村が加わってないこと、また北条義時が事件の直前に急病で実朝の列から退席していること、そしてこの二人が中心となりその夜のうちに公暁を討っていることなどから色々憶測が流れていますが、誰が中心とした陰謀であったのかは現在まで闇の中です。

 また公暁が大銀杏の蔭に隠れていたという言い伝えも真偽の程は定かではありません。しかし1000年以上もの間、鎌倉の歴史を眺めてきた老木であることには変わりなく県の天然記念物として、また鎌倉のシンボルとして人々に親しまれているのです。