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北東北縄文遺跡群を巡る旅


 長い間あまり注目されることのなかった縄文時代。しかし三内丸山遺跡の発見や近年における北東北・北海道縄文遺跡群の世界遺産への登録運動などにより脚光を浴び、縄文遺跡を目的に北東北に旅行する方も多くなってきました。
 そこでこのページでは北東北に点在する縄文遺跡のうち、遺跡が公開されておりかつ資料館などがある場所をピックアップし効率よく巡るプランを考えてみました(北海道の縄文遺跡群は今回対象外としました)。


初日  @二戸駅→A御所野縄文遺跡→B是川縄文館→C八戸市(宿泊)
2日目 C八戸市→D三内丸山遺跡→E亀ヶ岡遺跡→F弘前市(宿泊)
3日目 F弘前市→G大湯環状列石→@二戸駅(もしくは大館能代空港

A御所野縄文遺跡
縄文時代中期の遺跡で国道4号線でももっとも標高が高い一戸町に形成された縄文集落。展示館には周辺の遺跡で発見された土器類が展示されている。


縄文土器
B是川縄文館
国宝合掌土偶が展示されている縄文遺跡。内陸部にあるが気温が温かかった当時は海がすぐ近くにあった。現地の方の話では今でも広い範囲で縄文人が食べた貝の化石や土偶が普通に見つかるのだそうです。
合掌土偶
D三内丸山遺跡
縄文時代の価値観を根底から覆した縄文遺跡。縄文遺跡を巡る旅は三内丸山遺跡を経ずして語れません。




大型堀立柱建物と高床倉庫
E亀ヶ岡遺跡
遮光器土偶で有名な縄文時代晩期の遺跡。一万年以上続いた縄文時代の集大成のような遺跡で高度な土器や漆塗りの技術が確認されています。


遮光器土偶
G大湯環状列石
ストーンサークルで有名な縄文遺跡。縄文時代の配石文化は数多く確認されているが、規模や天文学的知識の観点からみると最大級の遺跡。

大湯環状列石
縄文遺跡を巡る旅について
 旅の目的が縄文遺跡巡りとはいえ、せっかく東北地方に来たのだから他の観光名所も巡ってみたいのが人情です。そこで縄文遺跡周辺の観光名所を少々かいつまんで紹介してみます。
@久慈市
 NHKの朝ドラ「あまちゃん」のロケ地に使用されたことから一気に人気急騰した町。御所野遺跡から東に向かえばそこは久慈市で、久慈市を観光した後北上し八戸市へ向かうことも可能。午前中に御所野遺跡の散策が済んだら久慈市ルートを選択してみるのも一案。

A深浦町
 弘前市から大湯環状列石へ向かう際に海側のルートを選択(少々遠回りとなります)する際に通過する町。青森県随一のリゾート地で旅行時期が夏場だった場合は特におすすめ。

B白神山地
 弘前市の西側に広がる世界遺産。弘前市から足をのばして散策する場合4時間ほど要するので判断が難しいところですが立ち寄る価値は十分です。

北東北の縄文遺跡位置図 
北東北 縄文遺跡群の地図
縄文遺跡群は現在の主要幹線道路や鉄道にほど近い所にある場合が多いのですが、これは縄文人達も交通の便が良く比較的平で開けた所に集落を構えていたからで、縄文時代と現在とでは海岸線は内陸部にあったものの地形はほとんど変化していないことからよく考えると当然のことなのです。なお各縄文集落との交易も盛んだったようで、北海道福島町にある館崎(たてさき)遺跡の出土品からは長野県霧ヶ峰周辺で産出された黒曜石を原料とした鏃が見つかっています。

ここに注目!縄文遺跡
 一言で縄文遺跡と言われても何が凄いのか?どのような文化だったのか知らない方がほとんどだと思います。そこで縄文時代の特徴を簡単に説明してみます。縄文時代の豆知識をもったうえで遺跡群を巡れば旅もより楽しいものとなるはずです。

時代背景
 縄文時代(諸説ありますが一般的には3000〜10000年前とされています)は旧石器時代と弥生時代の間に華開いた文化で世界史では新石器時代から青銅器時代に相当し、縄文時代の後期にはメソポタミア文明やインダス文明といった教科書にも出てくる有名な文化が世界各地で開花します。また地球は温暖化傾向にあり気候は現在より温暖で収穫される魚や木の実も現在よりはるかに多く種類も豊富でした。なお縄文文化の繁栄と衰退は縄文海進(地球の温暖化による海水面の上昇)の進行と退行に時間軸が一致しており地球の温暖化が縄文文明の繁栄を後押しし、寒冷化が衰退させた主要因ではないかと推測されています。

旧石器時代と何が違うの?
 旧石器時代は完全な狩猟・採取生活をしていたと考えられていますが、縄文時代は原始的な農業が行われ、また土器が発明され従前まで食料は「焼く」事しかできなかったのが「煮る」「蒸す」「発酵」などといった事ができるようになり、簡易な製塩技術も獲得しました。これにより調理方法や保存方法が増え食料とすることができる植物の幅も広がり人口も爆発的に増加します。

縄文文化
 縄文文化の特徴は名前の由来となった縄目の模様がついた土器です。これは土器の熱効果を増す為とか粘土の密度を増すために縄で締め付けた結果ではないかと言われていますが、その芸術的な紋様はかの岡本太郎氏に「芸術は爆発だ」という名言を言わしめたほど見事なものでした。また漆の技術や土偶も縄文文化特徴のひとつで合掌土偶や遮光器土偶といった特異な形をした土偶が数多く見つかっています。

土偶っていったいなに?
 縄文遺跡から出土する土偶はおおよそ人間とはかけ離れた姿をしており一説には宇宙人ではないかとまでいわれていますが、よく見るとほとんどの土偶で胸に2つの突起があり腹部は緩やかな曲線を描き、体の中心線上には産道と思われるものが描かれています。つまり土偶は妊婦をモチーフにしたものであることがほぼ確実視されています。特に産道については通常正面から見えない場所にあるのですが、土偶ではわざわざ目に付きやすい場所(へその辺りや場合によっては両乳房の中央に描かれている場合もありますが、すぐにそれとわかる形で描かれています)に描かれています。縄文遺跡の展示室を訪ねた際には土偶の中心線上を注意深く見てみてください。ほとんどの土偶に産道が描かれています。赤ちゃんの生存率が低かった縄文時代は赤ちゃんに降りかかる災いの身代わりで妊婦の土偶を作っていたのかもしれません。

縄文人の暮らし
 縄文人の暮らしは近年の研究により従来考えられてきたものより遥かに文化的なものだったと推測されています。調理方法は土器が油の温度に耐えられないことから「揚げる」ことはできなかったようですが、それ以外のことはすべて可能でヤマブドウやニワトコ、クワなどを使用した果実酒も作られていたようです。簡易な農耕も行われていましたが主食は貝や魚、栗、木の実といったもので栗の木を集落のまわりに植え計画的に採取していた遺跡も多く見られます。この他イノシシは大変重宝がられていたのか土器のデザインにも用いられていますし、ゴミ捨て場からはオットセイやアザラシといった海獣類やイルカ、マグロ、鯛などの骨も見つかっています。
 なお長年にわたり縄文人は完全平等の社会と考えられていましたが、三内丸山遺跡における大型建造物の建設や大湯環状列石における石の運搬などには指揮・指導する人間が必要ですし、埋葬された遺体も翡翠といった当時の高級品で装飾された、他の遺体とは取り扱いがあきらかに異なる遺体もあることから(シャーマンや神官などの遺体ではないかと考えられています)ある程度ゆるやかな階級社会だったと推測されます。また遺体の中には幼い頃ポリオウィルスに感染し下半身が不自由ながらも20才前後まで生きていた女性のものも確認されており今で言う「相互扶助」の精神はすでに確立していたようです。
 このほか、他の文明では見られない縄文文化の特徴として、戦争が無かったことが挙げられます。1万年もの間争いがなかった文明は世界中探しても縄文文化のみで、これは縄文文化を語る上で特筆すべき大変重要な事柄となっています。なお縄文時代に戦争がなかったことの根拠として縄文遺跡では弥生時代の遺跡をはじめとして世界中の遺跡から見つかっている柵や濠といった軍事施設が見つからないこと。また武器によって損傷をうけたと推測される骨が見つかっていないこと等が挙げられます。これら軍事施設や損傷を受けた骨は古代遺跡では当たり前のように出土しますが、縄文遺跡では見つかっていないこと自体が考古学の常識を覆す事柄なのです。
※ただし三内丸山遺跡では通常の埋葬場所ではなく、廃棄ブロック、つまりゴミ捨て場から人骨が発見された例もあります。これは集落の掟を破った犯罪者のものと推測されますが、戦争で得た奴隷の骨ではないかという意見もあります。



縄文人は何処から来て何処へ行ったの?
 縄文人は地球が寒冷化し日本列島が大陸と陸続きだった頃にモンゴル・シベリア地方、アラスカ方面、朝鮮・大陸方面、太平洋の島々などから渡ってきた人間達がやがて地球の温暖化で日本列島に閉じこめられ文化や遺伝子の混血が進み縄文人となったとされていますが身体的特徴から現在のモンゴル・シベリア地方に住む人達の特徴を強く受け継いでいたようです。いずれにせよ「原日本人」といえる人達です。
 日本列島で華開いた縄文文化もやがて衰退していきますが、その理由として地球の寒冷化により食料事情が悪化した事(縄文人は最大時で26万人ほどいたとされますが、縄文時代後期には人口が8万人程度まで減少しています)や大陸から大挙して渡ってきたいわゆる「弥生人」と融合してしまった事が推測されます。当時の弥生人の集落跡には柵や濠といった軍事施設が発見されており、戦争に慣れていたと考えられています。おそらく大陸における長年の戦乱で戦にも長けていたのでしょう。そんな弥生人に対して1万年以上もの間戦争も知らず平和に暮らしてきた縄文人は太刀打ちできるわけもなく、ある者は弥生人と同化しまたある者は最後まで抵抗し、やがて人が生活するのには不便な東北や九州の僻地に追いやられ後に「蝦夷」や「熊襲(くまそ)」と呼ばれるようになったと推測されています。
 なお近年の遺伝子調査では日本人のほとんどが縄文人と渡来人の混血であるのに対して、アイヌ人および沖縄の人々は縄文人に近いことが分かっています。

一度滅んだ縄文文明
 縄文遺跡は東北地方に集中してよく見られますが、この理由については縄文初期の7300年前に大噴火をおこした鬼界カルデラによって九州を中心とした西日本一帯の縄文文明が滅び文化が断絶してしまったことが考えられています。この鬼界カルデラは薩摩半島の南方50kmの海底にあり、当時の噴火で噴出した火山灰は西日本で20センチ、関東地方でも10センチも積もりました。世界には火山噴火により滅びた文明はいくつかありますが、西日本の縄文文化も一度火山噴火が原因で滅んでいるのです。
      
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