鎌倉の文化



 鎌倉文化とは一言でいえば鎌倉幕府の成立した12世紀末から幕府が滅亡した14世紀前半の間に鎌倉を中心に花開いた「武士の文化」で、従前まで王族や貴族が中心であった華やかな文化とは異なり、貧しい開発領主として辛酸を嘗めてきた坂東武士達の生活習慣から生まれた質実剛健な文化です。この鎌倉文化には後に大陸の仏教文化も加わり、後々まで日本の宗教、道徳といった思想に大きな影響を及ぼします。また武士の法律である御成敗式目の考え方は律令制度(貴族)による中央集権から土地占有者(武士)にその所有を認める土地制度へと統治体制を根本から覆し、主君が手柄のあった家臣に土地を与え、家臣が主君に忠義を尽くし主従関係が結ばれるという武家社会における封建制度の基礎となりました。


鎌倉文化の特徴


武家文化

 鎌倉時代は平安時代までは比較的身分の低かった武家の地位が飛躍的に向上した時代です。特に東国の武士達は土地開発の為に送り込まれた者も多く領主とは名ばかりで貧しい暮らしを強いられていました。そんな武士達の質素な日常が鎌倉文化の特色として色濃く折り込まれており、日常の鍛錬でもある犬追物、流鏑馬、笠懸の修練は「騎射三物」と称され後に「弓馬の道」として体系化されます。工芸品も従前までの煌びやかな物から甲冑や刀剣を中心としたものが多く見られるようになります。
 

文学

 前代は源氏物語や竹取物語といった物語や古今和歌集といった世界に冠たる名作を生み出していますが、鎌倉時代になると平家物語や保元物語、平治物語といった武士が主役で戦乱を描いた軍記物が数多く生まれます。これらの作品は作者が不明なのものが多く琵琶法師(びわほうし)と呼ばれる盲目の僧が、琵琶による弾き語りで各地に伝えたといわれており、当時文字の読めなかった庶民や武士の間にも広く知られることとなります。

彫刻

 運慶、快慶らによる仏像彫刻はまさに鎌倉文化一番の特徴といっても過言ではなく、前代までの天平文化の特徴も受け継ぎながらも東大寺南大門の金剛力士像などのように、写実的で力強い仏像、神像、肖像彫刻を数多くつくりだしています。



禅宗庭園

 禅と大陸文化が融合した禅宗庭園は鎌倉文化を象徴するもののひとつで、基本的な作りは前代と同様ですが鎌倉時代のものは極楽浄土の世界観が折り込まれているのが特徴で、円覚寺や建長寺の方丈庭園などはその後の京都天龍寺や西芳寺の庭園の原点となっています。

仏教

 鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗といった実に多くの新興仏教が生まれます。これらの仏教の特徴としては従前までの仏教は学問的要素も含み「鎮護国家」を目的とし王族や貴族といった上流階級を中心に広まっていきましたが、鎌倉時代の仏教は今まで仏教に触れる機会の無かった庶民にも分かりやすい教えで、戦乱や飢饉が続く政情不安な時代背景をもとに貴族も含めた全国民に広がっていった事が挙げられます。 分かりやすく言えば従前までの仏教は「国家や上流階級の人々の救済」が主たる目的だったのが、鎌倉新仏教は「読み書きのできないような人も含め万民の救済」を目的としています。
 また禅宗は「座禅をすることで自らのさとり(自分が何者か知る)を開く」という教えが武士の間に受け入れられ禅宗の臨済宗は鎌倉幕府の保護を受けます。

栄西と鎌倉幕府
 臨済宗の開祖である栄西は2度宋に渡り、日本に禅宗のひとつ臨済宗を伝えましたが、京都では比叡山の影響が強く思うように布教活動ができませんでした。
 その頃鎌倉では源頼朝が平家打倒の兵をあげやがて鎌倉幕府を開きます。鎌倉では源頼朝が神仏を深く信仰する人物であったこともあり、武士の風習に仏教が融合した独特の文化が生まれつつありました。
 やがて京都での布教に限界を感じた栄西は新天地鎌倉に行き幕府の庇護を求めます。禅をくみ悟りの境地に達しようとする臨済宗の教えは鎌倉武士達の共感を得、鎌倉5代執権 北条時頼の時代には日本で最初の臨済宗の本格的な専修道場である建長寺が創建されます。


源頼朝と日本の仏教文化

 
 源頼朝の功績は? と聞かれると多くの方が「武士の世の中を作り明治維新まで続く武家社会の礎を築いた」と答えるでしょう。もちろん正解ですが頼朝にはもう一つあまり知られていませんが日本の文化史に欠かすことのできない大きな功績があるのです。

 日本には「仏都」と呼ばれる古からの仏教文化の根付いた地域が5箇所あります。京都、奈良、鎌倉、平泉、会津の5箇所がいわゆる「五大仏都」と呼ばれている所ですが、このうち2箇所は頼朝の存在無くしては存在しえなかったといわれています。

 この2箇所のうちひとつはもちろん鎌倉です。平治の乱で罪人となった源氏一門は殺されたり捕らえられ処刑されたりしますが、まだ幼かった頼朝は伊豆へ流され、以後30代前半まで源氏一門を弔う日々を送っていたといわれています。そんな頼朝が後年行った鎌倉の街造りは神社仏閣を中心としたもので、頼朝の死後も受け継がれ鎌倉文化を育むゆりかごとなり現在に至っているのは皆さんご承知の通りです。

 ではもう一つ頼朝が深く関わっている仏都はどこなのでしょうか?

 それは平泉です。平泉の仏教文化は奥州藤原氏が築き上げたものですが一度消失の危機を迎えています。時は鎌倉時代前期。平氏を滅ぼした頼朝が次ぎに矛先を向けたのが奥州藤原氏が君臨する平泉です。俗にいう奥州合戦は頼朝率いる源氏の勝利となりますが、この時通常ならば当時の勝者の権利として平泉の仏教施設は「略奪」されるはずでした。 ところが頼朝は平泉における略奪を一切禁止します。理由は頼朝が平泉に広がる仏国土の光景に感銘を受けたからなどと言われていますがはっきりとしたことは分かっていません。いずれにせよ頼朝の判断で平泉の仏教施設は今日まで残ることができ、世界に冠たる文化遺産として世界遺産にも認定されているのです。なお諸説ありますが頼朝は平泉で見た仏国土の光景を以後の鎌倉町造りの手本にしたとも言われていることを最後に付け加えておきます。