明日香村の古墳




 明日香村及びその周辺は非常に多くの古墳が存在することでも知られています。これらの古墳のなかには高松塚古墳やキトラ古墳の壁画のように歴史的に見て非常に貴重な遺跡も数多くあり、これらの古墳巡りは明日香村観光のひとつとなっています。



明日香村の古墳巡り


 本項では明日香村における主な古墳もしくは古墳とされる遺構をご紹介していきます。



石舞台古墳(蘇我馬子の墓)

地図中 @  
 封土が無くなり石室がむき出しになった状態の古墳で古代豪族の蘇我馬子の墓ではないかといわれています。詳細については別途「石舞台古墳」のページをご参照下さい。



高松塚古墳

地図中 A  
 藤原京時代(694年〜710年)の古墳で埋葬者は分かっていません。発見されたのは1972年で色鮮やかな男女の壁画や盗掘を免れた副葬品が見つかり文化財に指定されました。石室内に描かれていた女子群像(通称「飛鳥美人」)はあまりに有名です。

高松塚壁画館
 高松塚古墳に隣接している資料館。館内には有名な「飛鳥美人」と言われる壁画の模写や副葬品のレプリカが展示されています。明日香村観光のスタート地点である「飛鳥駅」から歩いていける所にあります。

入館料
 一般 250円、 大学生・高校生 130円、 中学生・小学生 70円  ※30名以上で団体割引有り

開館時間 9:00〜17:00(受付は16:30まで)

休館日 年末年始

駐車場 無し(近隣に有料の駐車場あり)


高松塚古墳の光景
高松塚古墳 高松塚古墳の光景。誰でも一度は名前を聞いたことがある古墳だと思います。高松塚古墳は飛鳥歴史公園の敷地内にあり実際の古墳は離れたところからしか見ることができませんでしたが、隣接している壁画館では古墳内で見つかった壁画のレプリカが展示されています。

高松塚古墳の壁画
 高松塚古墳の壁画の模写。これはリーフレットを写したものですが、古墳の隣にある高松塚壁画館にいけばリアルな模写を間近で見ることができます。なお描かれている女性は飛鳥時代の宮廷女性の姿といわれています。

高松塚古墳の壁画


鬼の俎・鬼の雪隠

地図中 B  
  鬼の俎、鬼の雪隠は互いの距離が数十mと非常に近い距離にありますが、実はこの二つは同じ古墳の遺構で、表面の盛土がなくなり別々の構造物のようになったもので元々はひとつの石室で長い年月を経て現在のようにバラバラになったという説と元々石室は2つあり鬼の俎と鬼の雪隠の両方に石室があったという説の二つがあります。
 なお明日香村の言い伝えによると、この地域は風の森と呼ばれ鬼が棲んでおり、この鬼は風の森を通る旅人を騙してとらえては食べていたと云われ、そのさい旅人を「俎」で調理し食べ、「雪隠」で用を足していたのだそうです。


鬼の俎
鬼の俎 明日香村の鬼の俎。まさに俎のように真っ平らな石だが、元々は古墳内部石室の底石なのだそうで、鬼の俎から遊歩道を挟んで反対側には鬼の雪隠と呼ばれる石組み構造物もあります。これらは明日香村の西側にあり近くには欽明天皇のものとされる古墳もあります。

鬼の雪隠
鬼の雪隠 こちらは鬼の雪隠。雪隠とはトイレのこと。石の高さは大人の背丈よりやや大きいくらい。こんな大きなトイレで用を足す鬼とはどれくらいの大きさなのだろうか?なお現在までのところ、元々雪隠は上述の俎の上にのっていたものが転落して現在の場所にあるという説が有力となっています。


天武・持統天皇陵

地図中 C  
 天武天皇とその皇后で夫の死後皇位を継いだ持統天皇との合葬陵。鎌倉時代に盗掘にあいましたが、当時の記録が残されており、古代の天皇陵のなかでは唯一埋葬者が判明している古墳です。


キトラ古墳

地図中 D   
 7世紀末から8世紀初頭に築かれたとされる直系14mの円墳で朱雀を含む四神が描かれた壁画はあまりに有名です。現在は覆屋が建てられ古墳は見ることができませんが、特別展示時には見ることができ、平時でもレプリカを飛鳥資料館や明日香村埋蔵文化財展示室で見ることができます。


菖蒲池古墳

地図中 E  
 明日香村と橿原市との境目付近にある古墳。封土はほとんど失われており横穴式石室に2基の家形石棺が並んでいます。


丸山古墳

地図中 F  
 6世紀後半に築造されたと推測される前方後円墳。全長は320mにもおよび全国の古墳では第6位の長さを誇ります。また全長28mの横穴式石棺は日本最大となっています。


岩屋山古墳

地図中 G  

6世紀前半に築造されたと推測される方墳で1辺の長さは約54m。石室は横穴式で表面が美しく加工された石を2段に積み上げたものとなっています。


マルコ山古墳

地図中 H  
 日本では珍しい六角形の古墳。埋葬者は諸説ありますが天武天皇の皇子説などがあります。



古墳の始まりと終焉


 日本において古墳は4世紀〜7世紀にかけて数多く築造され日本史には「古墳時代」という時代もあるほどです。ではこの古墳とはどのような意味があり特徴があるのでしょうか?
 そもそも古墳というのは世界中で確認されており、文明が発達し支配階級者が現れると築造される傾向にあります。東アジアにおいては紀元前5世紀から4世紀の中国において築造され、秦の始皇帝の時代に最盛期をむかえます。一方日本は中国に遅れること800年、やっと古墳がみられるようになります。また朝鮮半島でも日本と同じ時期にみられるようになります。構造も類似点が多いことから日本、朝鮮いずれかで古墳がつくられそれが海を渡って伝播した可能性が考えられています(現在発見されている古墳は日本の方が1世紀ほど古い)。
 古墳時代の日本は多くの豪族達がひしめき合う時代で、大和朝廷も成立していたかどうかよく分からない時代です。権力者達は競って古墳を造りやがて日本独自の巨大な前方後円墳へと進化していきます。この巨大な古墳は日本の最たる特徴のひとつで、朝鮮で最大の古墳である「皇南大塚」を100m以上上回る古墳は日本に200基以上もみられます。また濠や柵があるのも大きな特徴の一つです。
 この日本で進化した古墳は朝鮮半島にも伝わり、朝鮮半島の南岸ではミニチュア版の日本式古墳も見つかっています。このように独自の進化を遂げた日本の古墳ですが6世紀を境に前方後円墳の築造が停止され、古墳自体の数も減少していきます。これは従前まで古墳を造っていた豪族達の力が弱まった為と推測され、逆にいえば大和朝廷が力を増し中央集権が進んでいった結果ともいえます。巨大な前方後円墳の築造に必要な労力はピーク時2000人/日、延べ680万人、工期は15年と考えられています。6世紀の豪族達はこのような労力を養う力は失っていたのでしょう。さらに7世紀になると「大化の改新」により中央集権化がより一層すすみます。そして646年には墓の規模や労役の人数を規制する「大化薄葬令」が発せられ古墳の築造は消滅していくのです。
 このように日本における古墳の栄枯衰勢は大和朝廷の勃興と深く関わっていると考えられるのです。