三十三間堂の歴史
一度は消失したとはいえ、文永3年(鎌倉時代)に再建されてから変わらず同じ場所、同じ建物を維持し続ける不動の寺「蓮華王院」。ではその長い歴史を紐解いてゆきましょう。
平安時代(創建)
平安時代末期第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として離宮に遷り「院政政治」を行っていました。
一方で当時は末法の世とされ、人々はこの末法の世から救われるために、造寺造仏などの作善を多くする必要があるとして、権力者達を中心におびただしい数の寺塔・仏像が作られました。
そんな時代背景のなか、後白河上皇は1164年
平清盛に命じ離宮の一角に蓮華王院本堂(三十三間堂)を建立します。 完成当時はお堂は朱色に塗られ千手観音像1001体が安置され、境内には数多くの伽藍や五重塔、不動堂などもありかなり規模が大きく豪華な建築物だったと推測されています。
三十三間堂を創建した後白河上皇や平清盛がすでに世を去り、栄華を誇った平氏も壇ノ浦で滅んだ1185年。京都一帯を襲った大地震により三十三間堂も倒壊してしまいます。
鎌倉時代(再建)
1185年地震により倒壊してしまった三十三間堂ですが、1191年に源頼朝によって再建されます。しかし1249年に今度は市中から発生した火災により三十三間堂や五重塔、多くの仏像、伽藍が焼失し、1266年後嵯峨上皇により本堂のみ再建されます。これが現在の三十三間堂です。なお現在ある1000体以上の仏像の大半は鎌倉時代の再建期に作成されたものです(正確には124体は平安時代(残りは火事で焼失)に、その他は風神雷神像を含め鎌倉時代に約16年かけて再興されたもの)。
室町・桃山時代(修理)
建立から約80年後に焼失したものの再建され、その後も修理を繰り返して、現在の美しい姿をとどめている三十三間堂。主な大修理は室町、桃山、江戸、昭和と4度行われ700年間変わらぬ姿をとどめていますが、特に室町時代の足利義教と桃山時代の豊臣秀吉が行った大修理は有名です。
足利義教
足利幕府第6代将軍。将軍不在時にくじ引きにより選出された将軍で、もともとは将軍候補ではなかったことから門跡(皇族や貴族が務める住職)となり天台座主(
比叡山延暦寺の住職)を務めたこともある変わり種の将軍です。義教は仏門に入っていた縁から京都の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、三十三間堂の屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏と5ケ年を費やして内外両面の整備を行ます。
なお義教の父は
金閣寺を創建した足利3代将軍義満で子供には
銀閣寺を創建した足利8代将軍義政がいます。足利義政は有名な
応仁の乱を引き起こしますが三十三間堂は市中にあったにもかかわらず焼失を免れています。
豊臣秀吉
秀吉は権力の絶頂期だった晩年、
奈良の大仏を凌ぐ規模の大仏を安置するお寺を三十三間堂の北隣に造営し、後白河上皇の御陵や三十三間堂もその境内に取り込んで土塀を築きます(現在遺構として南大門・太閤塀(ともに重文)が残っています)。このとき三十三間堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、秀吉の死後もその意志を継いだ秀頼の代まで続きました。ちなみにこの時建てられた「
奈良の大仏を凌ぐ規模の大仏を安置するお寺」が豊臣家滅亡のきっかけとなる方広寺です(鐘に刻まれた文字が家康を呪うものとされ大阪の役を引き起こす。いわゆる「方広寺鐘銘事件」)。
なお有名な「通し矢」は秀吉の時代にはすでに始まっていたといわれています。
江戸時代(通し矢)
豊臣家から徳川家の支配する江戸時代へと移り変わる際、権力闘争の舞台ともなった京都では寺社の移転や寺名の変更は数多く行われました。そんななかでも豊臣家と繋がりの深い三十三間堂ですが何故か難をのがれ現在の地に存続し続けます。
やがて江戸時代になると120m先まで矢を通す「
通し矢」が流行し多くの武芸者が挑み、その伝統は現在も大的大会という形でうけつがれています。この辺りから三十三間堂=武芸の聖地というイメージが定着してきたものと推測されます。なお吉川英治の「宮本武蔵」では武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として描かれていますが、これは事実かどうかは分からないそうです。
江戸時代には徳川家光公が小規模な修理を行っています。現在西側の柱は片面が鉄板で覆われていますが、これは大量の射損じた矢があたる位置であったため、この時補強として作らせたものです。また正面中央に7間の向拝を設ける現状の形もこの時の修繕によるものです。
現在(重要文化財から国宝へ)
近代になると堂中央に安置されている中尊・千手観音坐像(ざぞう)が1951年、国宝に指定されます。 左右両翼に500体ずつ居並ぶ他の立像は重要文化財止まりでしたが、その後の学術的調査や修理・補修といった関係者達の努力の結果、67年後の2018年に1001体の立像全てが国宝に指定されました。