龍安寺 観光案内



 龍安寺(りょうあんじ)は室町時代に創建された寺で応仁の乱の東軍総帥である細川勝元が細川家の寺にするため徳大寺家の山荘を譲り受け、当時さかんに信仰されていた禅宗の寺として開山したのが始まりです。その後応仁の乱(1467年〜1477年)で焼失しましたが、勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって(1488年)に再興されました。
 また有名な石庭は東西30メートル、南北10メートル余りの長方形の白砂の庭に15個の石を配置したもので虎の子渡しの庭とも呼ばれています。


龍安寺の石庭


 龍安寺といえば皆が真っ先に答えるのがこの石庭。世界中には様々な庭園があるが、龍安寺の石庭は個人的には世界でもっとも質素で有名な庭園といっても過言ではないような気がする。

龍安寺の石庭


石段


  龍安寺の参道。龍安寺の境内は鏡容池から先が石段になっており、石段を登った先に庫裏や方丈庭園、仏殿がある。写真の光景は全部で3箇所ある石段のうちのひとつで一番坂がきついように感じられた。

龍安寺の石段

龍安寺の龍


 龍安寺の龍。龍安寺は室町時代の守護大名細川家の寺として開基された寺で、細川家の守護神「石清水八幡宮」のある男山より飛来した神龍の安息所として、龍安寺と名付けられたと伝えられている。

龍安寺の龍

応仁の乱ってなに??


 京都の寺社を語る上で必ずといってよいほど登場するのが「応仁の乱」です。数々の貴重な建築物や宝物が焼失し、以後100年以上続く戦国時代の引き金となった応仁の乱は日本の歴史を語る上でも重要なターニングポイントとなります。ではこの応仁の乱とはどのような争いだったのでしょうか?
 応仁の乱は1467年から1477年まで京都を中心に発生した内乱です。8代将軍足利義政には子供が無かった為、弟である足利義視に将軍職を禅譲する約束をしますが、その後義政に男子(足利義尚)が産まれた為、義視を押す勢力と義尚を押す勢力とが対立し、やがて東軍、西軍にわかれ京都を主戦場として多くの守護大名を巻き込んだ争いへと発展していくのです。
 この争いこそが応仁の乱と呼ばれる内戦ですが、当事者である8代将軍足利義政はさっさと隠居し東山の山荘で風流三昧の生活に没頭し(この時建てられたのが銀閣寺です)、妻である日野富子は東西両軍に金銭を貸し付け利益を得るなど戦の目的が不明瞭なまま戦が続けられ、昼間戦場で刃を交わした足軽達が夜は銭湯で共に汗を流しあう光景も見られたそうです。
 このようないい加減な状態が10年以上も続き無駄な血が流され多くの財が焼失した結果、足利将軍家や守護大名の力は失落し、強く実力のある者が生き残る戦国時代へと突入していくのです。
 応仁の乱は平安以降の京都の貴重な文化財を焼失させた一方で、京に蔓延る既得権益にしがみつく旧態勢力も一掃したまさに歴史の転換点となる争いだったのです。