パワースポット神田明神のご利益



 神田明神は厄除けや縁結びのご利益もさることながら、非常に強力なパワースポットといわれています。その理由は東京が風水の思想をとりいれた風水都市であり、神田明神はその要になっている施設のひとつであるということ。また祭神の1柱である「平将門公」が非常に強力な御霊神であり東京を守護している守護神でもあるなどといったいった事が理由としてあげられます。
 いずれにせよ神田明神のご利益やパワースポットの由縁を説明するうえで、祀られている御祭神は重要ですのでまず最初にご紹介しておきます。


祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
 神田明神創建当時(730年)から祀られている神様。大黒様の名でもよく知られている出雲大社の祭神と同じ神様。出雲神話の主人公で良妻に恵まれ日本の国土・産業の礎を築きあげます。この為、国土開発、産業、夫婦和合、縁結びのご利益があるとされています。
 出雲神話における大己貴命の活躍については別途

国造り編 大国主命と須勢理姫命の物語
国譲り編 出雲神話 国譲り編

のページをご参照下さい。


少彦名命(すくなびとのみこと) 
神田明神 少彦名命(すくなびとのみこと) 一部の地域(神社)ではえびす様と同一神とされている商売繁昌・医薬・酒造・知識・造物の神様。手のひらにのるほどの大きさで一寸法師のモデルともいわれています。上述の大己貴命に知識を授け共に日本の国造りを行います。
 明治天皇が神田明神を行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのは良くないとされ、平将門が祭神から外され代わりに出雲神話において大己貴命とタッグを組んだ少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請されたという経緯があります。


平将門命(たいらのまさかどのみこと)
 桓武天皇を祖とする平家一門の人物。戦上手で騎馬戦術や日本刀を作った武士の先駆け的人物といわれ、日本史における武士の活躍はまさに平将門からはじまります。関東一円を舞台とした承平天慶の乱で逆賊として討たれ、元々神田明神近くの将門塚に祀られていましたが、鎌倉時代に天変地異が多発したことから御霊神として神田明神に奉祀され以来江戸の守護神として信仰を集めます。明治時代には祭神から外された時期もありましたが1984年(昭和59年)になって本社祭神に復帰しました。生前の活躍から勝負の神様とされ、江戸(東京)を守護する厄除けの神様としても知られています。平将門公の詳細については別途下段を参照。


パワースポット 神田明神


江戸城 風水関係図
 パワースポットとしてよく紹介されることの多い神田明神。その理由は徳川家康やそのブレーンであった南光坊天海が築き上げた風水都市江戸によるところが大きいとされています。江戸の中心となる江戸城の周辺には数多くの寺社が集められ守護していますが、その要となっている寺社のひとつが神田明神です。
 具体的には鬼門にあたる東北の守護を上野寛永寺・神田明神が受け持ち、裏鬼門にあたる南西を増上寺・日枝神社が守護しています。特に神田明神−日枝神社のラインはまさに皇居(江戸城)の中心を通る東京守護の要とされています。
 また我が国最強の怨霊として恐れられ、東京の守護神として祀られている平将門公の存在も神田明神がパワースポットと呼ばれていることと深く関係があります。


属性・相性

 神田明神のパワースポットにおける属性は「中立」とされています。つまりどの属性の方が訪れても問題ないというわけですが(属性の考え方については別途「パワースポットの属性」のページを参照)、実は神田明神とはとても相性の悪いとされるお寺が存在します。
 それは「成田山新勝寺」。成田山新勝寺は平将門討伐に苦戦した朝廷が僧の寛朝に空海作の不動明王像と剣を持たせ不動明王を安置して護摩を焚いたその場所とされています。連戦連勝だった平将門も護摩祈満願の日に突然戦場に吹いた逆風により形勢不利となり、一本の流れ矢が額に命中し命を落としてしまいます。
 このような故事により成田山新勝寺を参拝すると将門公を苦しめることとなるため「神田明神の崇敬者や氏子は成田山新勝寺を参拝してはならない」と言われているのです。ちなみに新勝寺のご本尊は護摩祈祷を行った不動明王です。


神田明神のご利益


 神田明神のご利益でよく知られているのが「縁結び」「厄除け」「勝負運アップ」「仕事運・金運アップ」「勝負運アップ」です。これらのご利益にはそれぞれ理由や由来がありますのでそれをひとつひとつご説明していきます。

縁結び

 これは神田明神に祀られている祭神の1柱が縁結びで有名な出雲大社の祭神「大己貴命(大黒様)」であることに由来します。日本最高の縁結びスポットと呼ばれる出雲大社の神様が祀られているわけですから同然神田明神にも強力な縁結びのご利益があるというわけです。
 神田明神では隨心門をくぐって左を見ると大黒様の石像が安置されています。この大黒様は縁結びスポットとして人気で休日は行列ができることもあります。
 なお大己貴命(大黒様)が何故縁結びのご利益を司るのか、詳細な理由については別途「パワースポット出雲大社の縁結び効果」のページをご参照下さい。

神田明神 大黒様


厄除け

 厄除けのご利益は神田明神が風水に基づいて江戸城(皇居)の鬼門を守護していることや、祭神の平将門公が東京の守護神として信仰されていることからきています。


勝負運

 勝負運も平将門公に由来しており、将門公は生前は武士の先駆けとして活躍し戦では連戦連勝でした。この事から武士を中心に信仰を集め、慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いの際には徳川家康公が戦勝のご祈祷を行ない決戦に挑み見事に勝利を収めます。
 この事から必勝のご利益。つまり祈願すると「勝負に勝つ」とされているのです。
 ちなみに家康が関ヶ原で勝利した9月15日は神田明神の例祭(神田祭)の日であったことから、以後神田祭は徳川将軍家より支援を受け、縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられ、現在にいたっています(現在は5月中旬に例祭が行われています)。


仕事運・金運

 仕事運・金運は祭神ですある大己貴命(大黒様)と少彦名命(恵比寿様)が共に日本の国土の礎を築いた産業の神様であることや、大己貴命が七福神のとして福の神であることが由来しています。また神田は日本有数のオフィス街であり、会社関係の参拝者も多いことから(参拝者が多いと言うことは成就した人も多い)仕事に関するご利益があるといわれています。



神田明神のご利益キーワード


 さてここまで神田明神のパワースポットたる所以やご利益についてご説明してきましたが、風水や御霊神、平将門公など言葉は聞いたことあるけども具体的な事は分からないといったキーワードがたくさん出てきたのではないでしょうか?
 本項ではこれらのキーワードを簡潔に説明しております。


風水

 風水とは元々は「その土地を外敵の侵略や災害、疫病から守りつつ、いかに豊かにするか」ということを研究した現代の地政学にも似た古代中国における学問です。陰陽道の思想も取り入れられた風水は家から都市まであらゆる場所にあてはめることができ、日本においても古来より風水の思想は家作りや町作りに取り入れられてきました。なかでも京都の平安京や江戸などは風水の思想を取り入れた代表的な都市といわれています。


御霊神

 古来、災害や疫病が発生するのは強い怨念を持って亡くなった人の怨霊が原因、つまり祟りであると考えられてきました。御霊神は非業の死を遂げ、死後に祟りを及ぼした人の怨霊を鎮める為に神として祀ったものです。つまり「強力な祟りをなす怨霊であれば逆に神様として祀ってしまえば供養にもなるしご利益も強力であろう」というわけです。御霊神を祀った神社は多数ありますが、なかでも以下に紹介する3人はその祟りの強さから「日本三大怨霊」とも呼ばれています。


御霊神社=祭神 早良親王
 早良親王は桓武天皇の弟で皇太子の最有力候補でしたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして流刑され無実を訴えながら憤死します。死後は都で疫病の流行や災害、反乱などが発生しこれらは早良親王の祟りと畏れられました。桓武天皇は弟早良親王の怨霊を鎮めるため御霊神社を建立しこれが御霊神の始まりとなりました。ちなみに桓武天皇が奈良から京都の平安京へ都を遷したのも早良親王の祟りを恐れてのことといわれています。

天満宮=祭神 菅原道真(天神様)
 猛勉強の末に左大臣まで出世するも政争に敗れ太宰府へ流刑され亡くなった菅原道真公を祀った神社。菅原道真の死後落雷などの天災や政敵の怪死などが相次いだ為、これをもって菅原道真公の祟りとし天神様、しいては学問の神様として祀られるようになりました。

神田神社=祭神 平将門
 上述の早良親王が御霊神における西の横綱ならこちらは東の横綱。詳細は下段で紹介していますので本項では割愛いたします。


平将門

(不詳〜940年)
 平将門は平安時代中期に実在した関東の豪族。桓武天皇を祖とする平家一門の人物で桓武天皇から数えて6代目となり、また従兄弟にあたり平将門と争った「平貞盛」は平清盛や鎌倉北条氏の直接の先祖にあたります(貞盛から数えて7代目の人物が平清盛)。
 将門の祖父「高望王」は中央での展望が望めず国司として関東の地で勢力を広めますが、将門の時代になると各豪族同士の勢力争いが激化し、将門も上京している間に自らの土地を叔父に盗られてしまったうえに、東国の民には重い負担が強いられていたことなどもあり、京都の朝廷に対抗して新皇を名乗り、東国の独立を標榜し平将門の乱(承平天慶の乱)をおこします。
 戦は平将門の連戦連勝でしたが、従兄弟の平貞盛が下野国押領使の藤原秀郷(後に奥州藤原氏西行法師などを輩出する武家藤原氏の祖)を味方につけると、将門は部下の大半を帰国させていたこともあり形勢不利となり、最後は流れ矢が額に当たり絶命します。
 死後将門の首は京都で晒された後、持ち去られて現在の東京大手町の首塚に埋葬されたと伝えられていますが、鎌倉時代になると関東で疫病が流行したり天変地異が頻発した為、それが将門公の祟りであるとして人々を恐れさせたため、延慶2年(1309)に首塚の近隣に鎮座する神田明神に奉祀されました。

 将門は新皇を名乗った反逆者ではありますが、戦自体は相手からしかけられたものです。また武芸の誉れ高く武士の先駆けとして戦いを避け当時未開の地であった関東の地を開発したこともあり当時の武士や庶民からの人気が高かったといわれています。
 また日本史上武士として初めて名をなした人物であり、朝廷から権力を奪おうとした人物でもあります。鎌倉幕府や江戸幕府は武士が朝廷から権力を奪い成立した政権ですから必然的に将門を崇拝する素地がありました。この為、神田明神は歴代有力者の庇護を受け江戸時代には江戸城の表鬼門に当たる現在の地に移され関東・東京の土地を守りその土地に不敬を為す者に祟りをなす土地神様として、また江戸を守る「江戸総鎮守」として信仰を集めているのです。


今も続く平将門の祟り?
 日本最強の怨霊として畏怖されている平将門公。これは武士や農民の苦しみをよそに貴族達が我が世の春を謳歌していた平安時代に突如「新皇」を名乗った事による精神的衝撃や将門公の人気故に神格化されたことなどが理由としてあげられますが、それでも少々不思議と感じざるを得ない事もいくつかあります。本項では将門公の祟りについて客観的な知見から時系列的に紹介していきます。

 まず祟りをなすとされている場所は神田明神ではなく、その近くにある「首塚」です。
 将門公の首は京都でさらされていましたが、その首は腐ることなくやがて自らの体を探しに空を舞い何度か落ちながらも、最後は現在の東京大手町に落ちたと伝説が残っています。首が落ちた場所に首を葬る為に築いた塚が現在の「首塚」というわけです。

 将門公は鎌倉時代に御霊神として神田明神に合祀されますが、明治時代になると明治天皇が神田明神を行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのは良くないとされ、平将門が祭神から外されてしまいます。皇城鎮護の神田明神に鎮座する帝都の守護神を外してしまったわけです。するとその後発生したのが「関東大震災」と「東京大空襲」です。
 いずれも未曾有の被害をもたらし帝都消滅の一歩手前までいった大事件です。
 
 関東大震災の後は首塚を取り壊し大蔵省(現在の財務省)の仮庁舎を建てますが関係者が次々に病気になり死者も出る騒ぎとなり首塚が元に戻されます。ちなみに大蔵省を大いに悩ませ日本経済を危機的状況に追い込んだ昭和の大恐慌もこの直後に発生します。

 戦後はGHQが区画整理の為、首塚を取り壊そうと工事に取りかかりますがブルドーザーが横転する死傷事故が発生し計画は中止となります。

 他にも首塚の一部を購入しビルを建てた企業の職員が次々と病気になり、お祓いをしたというお話(この企業は後に史上最大級の不良債権を抱え経営破綻しています)や、隣接するビルは首塚に尻を向けないようにしたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けていないといった配慮がなされているなどというお話が伝わっています。これらの真偽の程は定かではありませんが、平将門公の首塚は大手町のビル街のなかにある意味不自然な立地で静かにたたずんでいます。本来ならもっと広い場所に遷座していただくのが自然だと思うのですが、平安時代から何故かその場所のままです。将門公の首塚は科学技術の進んだ現代でも未だに説明のつかない不思議な空間で、我々人間がおいそれと手を加えることなど許されない御神域なのかもしれません。