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義経伝説を巡る旅


 一般的によく知られてはいるけれど実際具体的な事はよく分からない。義経伝説に対する率直な感想だと思います。このページでは義経一行の足跡をたどってみたいという方の為に、義経伝説を検証すると共に旅行プランも考えてみました。

初日  @平泉町→A宮古市(宿泊)
2日目 A宮古市→B久慈市→C八戸市(宿泊)
3日目 C八戸市→D青森市→E十三湊→F義経寺→D青森市

@平泉町
言わずとしれた奥州藤原氏の根拠地。義経がすごしたとされる高舘義経堂の他、世界遺産中尊寺など見どころたくさん。義経伝説はここから始まります。



平泉町の高舘義経堂
義経最後の地とされる「高舘義経堂」
A宮古市
平泉を脱出した義経一行が3年あまり滞在したとされる所。義経は宮古市街地の北部にある霊山「黒森山」にある社で黒森神社で3年3ヶ月ほどすごし般若心経を書写したと言われています。他に三陸海岸随一の景勝地浄土ヶ浜も必見。

宮古市 黒森神社
宮古市の「黒森神社」
B久慈市
「義経が生きている」という報告を受け鎌倉から差し向けられた当代きっての武将畠山重忠が外れるようにと願いながら逃げる義経に向かって矢を放ったところと言われる諏訪神社があります。現在諏訪神社の御神体は畠山重忠が放った矢。
久慈市 諏訪神社
久慈市「諏訪神社」
C八戸市
義経北行伝説の中核を成す都市。義経は八戸に10年近く滞在し、妻の死を機に十三湊へと旅立ちますが、10年近く滞在しただけあって小田八幡宮やおがみ神社、長者山など義経伝説が伝わる史跡、仏閣が数多く残されています。

八戸市 小田八幡宮
八戸市高舘の「小田八幡宮」
D青森市
各地に残る言い伝えをひもとくと義経一行は現在の国道4号線沿いを北上したようで、途中東北町の「壺のいしぶみ」や青森市の貴船神社、善知鳥神社に立ち寄ったと云われています。
青森市 善知鳥神社
青森市の「善知鳥神社」
E十三湊
中世に栄えたと云われる伝説の貿易港。当時は奥州藤原氏三代目秀衡の弟である秀栄が治めており、義経はすでに隠居した秀栄と共に檀林寺ですごしたと云われています。
十三湖
十三湖
F義経寺
義経は津軽半島の突端にある三厩地区から蝦夷地に旅だったとされる所。義経寺の前には義経伝説がのこる厩石がある。またすぐ近くには津軽半島の最突端、竜飛岬があります。
三厩湾
義経寺から見た三厩港

義経伝説を巡る旅について
 義経伝説が伝わる場所は下の地図に示すようにほぼ一本の線上に点在しています。伝説が残る場所はHPやガイドブックを調べてみると非常にたくさんありますが、地図で見る限りは一直線上なので全て巡ることができそうな気もします。しかし実際に訪れてみると廃寺になっていたり、現在はなにもないただの原野だったり、また社が残っていても車を停めるスペースが無かったりで無駄な時間や労力を費やす事も多々あります。そこでこのページでは現在地元でも信仰され、また史跡として一般公開されている所を中心に紹介してみました。
 また義経伝説を巡る旅は平泉から三陸海岸を経て津軽半島まで約500kmの旅です。道中ただ通りすぎるだけではもったいないような名所もたくさんあります。したがって上記では2泊3日の旅で紹介していますが、実際は3泊4日でも足りないくらいの行程であるということを念頭にプランを練ってみてください。
義経北行伝説について

 日本史上最高にしてもっとも日本人に愛されているヒーローといえばまず名前が挙がるのが「源義経」です。義経は1189年岩手県の平泉町で庇護者である藤原泰衡に攻められ、最後は火を放った持仏堂に籠もり自害したというのが通説になってます。・・・・・・・が実は義経は生きていた。そして東北地方を北上し、蝦夷地に辿り着きはては大陸に渡り大蒙古帝国の祖であるジンギスカンになった。これが俗にいう義経伝説です。義経伝説は悲劇のヒーローである義経が実は生きていたというストーリーがいかにも日本人好みの設定で知らない人はいないほど有名な伝説のひとつとなっていますが、実際真偽のほどはどうなのでしょうか?

一般的にいわれていることは
 義経北行伝説は岩手県平泉町から三陸海岸、青森県にかけて点在していますが、話を要約すると以下のようになります。
 義経をかくまっていることで鎌倉にいる源頼朝からの圧力が強くなってきた平泉では鎌倉勢とまともに戦っても勝ち目は無いと判断し、藤原泰衡と義経が示し合わせ義経は平泉を脱出します。時は1188年。正史で義経が自害したとされる一年前の出来事です。その後義経は三陸海岸を北上し青森県の八戸市に辿り着き、そこを安住の地と定めしばらく滞在します。その間藤原泰衡は偽の首を義経の首として鎌倉に送り事の解決を図りますが、本来の目的が義経の首ではなく奥州平定であった頼朝は1189年に軍勢を率い平泉を滅ぼしてしまいます。義経はその後も10年近く八戸市に滞在しますが、兄頼朝の死や連れ添った妻の死などを機に八戸を離れ奥州藤原氏の一族が治める十三湊を目指します。十三湊を治めていたのは義経最大の保護者であった奥州藤原氏三代目秀衡の弟である秀栄で義経は秀栄の元でしばらくすごしますが、やがて十三湊を離れ蝦夷地へ渡り、その後大陸に行きジンギスカンになった。
 以上が義経伝説のおおまかな概要です。

義経伝説の根拠は?
 義経伝説は聞くと突拍子もないような物語に聞こえますが、根拠とされる事柄を見てみると「なるほど」と思える部分が多々あります。以下に義経伝説の根拠を紹介します。

根拠1義経伝説を地図に記していくと一本の線となる
 岩手県から青森県にかけて点在する義経伝説ですが、この義経伝説、ひとつひとつは神秘めいたいかにも人の創作話のように聞こえるのですが、実はこれらの伝説の場所を地図に落とすと平泉を起点に三陸海岸、八戸、青森市、十三湊と一本の線上にきれいに並び、また年代も平泉から巡に新しくなっているのです。つまり点在する義経伝説は地理的、年代的に合致し整合性があるのです。これは交通や通信手段が乏しかった平安、鎌倉時代の状況を考えると驚くべきことで、義経一行、もしくは義経に縁のある人物が実際に行脚したのか、はたまた旅の山伏などが上記のルートで義経伝説を語り伝えたと考えるのが一番辻褄が合います。

根拠2義経の首はちゃんと確かめられたのか?
 正史では義経の首は旧暦の4月30日に討ち取られ、酒を満たした黒漆のひつぎに入れられ鎌倉には5月22日に到着しています。しかし頼朝の母の命日と重なったため鎌倉入りをすることが許されず、実際に首実検が行われたは6月13日とされています。実にこの間33日を要していますが、いくら酒に浸していたからといって33日間も首が腐敗せず身元が確認できる状態だったのか疑問が残ります。上記の月日は旧暦であり現在の暦で考えると真夏の盛りの時期です。さらに首は戦火により焼けただれていたので、実際義経の首であると確認するのは不可能だったというのが根拠です。さらに付け加えると通常平泉〜鎌倉は10日の行程なのですが、正史では20日ほどかかっています。奥州平泉の運命を左右する義経の首ですから直ちに届けられると考えるのが普通ですが、これは義経の首が偽物であることを見破られないようにわざと時間をかけて鎌倉に向かったという事も考えられます。

根拠3アイヌにも伝わっている義経伝説
 義経伝説が初めて世に伝えられたのは1558年〜1569年の頃で、時の将軍足利義昭に蝦夷の大名が「実は源義経は生きていて蝦夷地に逃れていたのです」と言ったのが始まりとされています。また江差、松前地方に住むアイヌには何者にも屈しない「ハンガンカムイ」と呼ばれる英雄がヒエやアワの栽培方法を教えてくれたという言い伝えが残されており、この「ハンガン」=判官(義経の官職で代名詞でもある)=義経とされています。この「ハンガン伝説」は数多く残されており、判官を名乗る人物がアイヌの人達と密接な関係を持った事は間違いの無い事実のようです。義経の事を何も知らないアイヌ人の間で義経が信仰されていたのは驚くべき事ですが、江戸時代の紀行家「管江真澄」は実際に蝦夷地に渡りハンガンカムイを調べた結果、「確かに判官という人物は存在したが、アイヌ人で信仰されている判官は義経とは別の人物ではないか」と推測しています(判官とは役職であって義経以外にも判官の官位を受けた人物はたくさんいる)。

根拠4藤原氏と八幡宮
 本州における義経北行伝説のキーポイントなるのが八戸市と十三湊です。この両地には長期間滞在しています。このうち十三湊は前述したとおり奥州藤原氏縁の地ですので北行伝説の主人公は奥州藤原氏と縁のある人物だったと考えられます。また八戸市でもっとも長く滞在した場所が高舘と呼ばれる所で、ここには義経が毘沙門天を祀ったとされる「小田八幡宮」があります。そもそも八幡宮とは源氏の守り神である八幡神を主祭神とする神社で源氏一族が生活した場所には必ず八幡宮が建てられました。小田八幡宮は義経より6代先の先祖にあたる源頼義が勧請したとされていますが、この地にやってきた義経もしくは源氏縁の人物が信仰し拠り所としたのでしょう。つまり北行伝説の主人公は奥州藤原氏と源氏の両方に縁のある人物と考えられるのです。

根拠5番外編「チンギスカン説」
 最後にチンギスカン説について少しふれてみますが、チンギスカン=義経説をはじめに唱えたのはシーボルトといわれています。チンギスカン自身生誕や生い立ちが不明なうえに、遊牧民族の頭領が部族をまとめあげ、巨大国家を築きあげるという発想をどうやって得たのか、これは「世界史上最大の奇跡」ともいわれています。
 ところがチンギスカンに義経を当てはめるとこれらの不明な点が全て解決してしまうのです。私自身は「チンギスカン=義経」説には懐疑的なのですが、調べてみると結構面白いので皆さんも興味があったら一度調べてみてはいかがでしょうか。


義経の足跡をたどってみよう
 ここまでHPを見てくださった方々はどう思いますか?私自身、実際に義経が生き延びて東北の地を旅したかどうかは解りません。しかしここまで地理的、時系列的に辻褄が合う言い伝えが点在しているということは、義経とまではいいませんが、義経縁の人物が北行の旅をしたことは間違いのない事実なのではないかと思っています。
まだまだあります。義経伝説が残る場所

・遠野市赤羽峠の麓に「風呂」という姓の家があります。この風呂家は峠越えをして来た義経一行が歓待を受けて長旅の埃を洗い流すことが出来たとされ、
 それ以来この家を風呂と呼ぶようになったと云われています。

・上郷町の駒形神社は赤羽の峠越えで力尽きた義経の愛馬「小黒号」の墓と云われています。

・遠野市には弁慶が持ち上げて重ねたとされる全長7mの巨岩「続石」がある。

・八戸市のおがみ神社は義経の妻(久我大臣の娘君で静御前ではない)が亡くなったさいに埋葬した所とされ、その後怪異な現象が続いたので現在のおがみ神社が建立された。












義経伝説 地図

義経伝説の特徴
 延々500kmにも渡る区間に点在している義経伝説(本州部分のみ)。しかしこの伝説にもある共通の特徴がいくつかありますので以下に紹介してみます。
1.行く先々で稲荷神社を勧進または奉納をしている。
 八戸市 藤ヶ森稲荷神社
 宮古市 津軽石の判官稲荷神社
 これは義経が京都の稲荷神社を信仰していたからだと云われています。

2.神懸かり的な話も多く残っている
 まったく実をつけなかった果実の木に実を成らせたり、荒れ狂う海を渡る際、三頭の龍馬を授かったり等。これは北行伝説の主人公が高貴な身分の人物だったことを示唆していると云われています。

3.義経伝説は地名や名字にも多く残されている。
・気仙郡住田町世田米判官山=義経が野宿をした所。
・義経が3年間すごした宮古市の黒森山の名前の由来は九郎森が転じたとものといわれている。

・青森県階上町榊部落は義経の従者である榊氏が移り住み榊という名前がついた。

・義経が田畑を切り開いたといわれる八戸市の高舘地区はかつて義経がすごした平泉の「高舘」からきている。

4.北海道では様子が異なってくる義経伝説。
 義経伝説は平泉から八戸市、十三湊、そして北海道の南部までは整合性のとれたまさに史実のような言い伝えとなっていますが、北海道の内陸部になると少々ニュアンスが異なってきます。言い伝えも各地に散在し、内容もばらばらで研究者の間では北海道内陸部の義経伝説はそれこそ文字通り伝説にすぎないのではないかと考えられています。
義経伝説が伝わるスポット一覧
義経伝説とはこんなお話です 東北の観光地・宿 義経伝説ってどんなお話?
平泉町 遠野市 三陸海岸 久慈市 八戸市
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