十三湖



 十三湖は中世期には日本を代表する交易港として栄えたと伝えられ、奥州藤原氏、十三氏、安藤氏と歴代の豪族達が十三湖畔の十三湊を支配し樺太や蝦夷地(北海道)、朝鮮半島等との交易で巨万の富を得たといわれている所です。
 特に安藤氏は十三湊を拠点に強力な水軍を持ち、鎌倉時代の元寇時には元の水軍相手に戦ったと記録に残されています。このように中世期には大いに栄えた十三湊ですが、ある日突然押し寄せた大津波により、家や船、港湾施設といったあらゆるものが流され、一夜にして壊滅したと伝えられています。
 その後は津波により堆積した土砂の影響で水深が浅くなり、大型の舟が出入りできなくなったことから、交易港として復活することは無く、現在は中世期に栄えた当時の面影を垣間見ることしかできません。
 なお現在の十三湖は味の濃厚な大粒のシジミが採れる事で有名で、春から夏にかけては道路沿いに直売店が立ち、都心のスーパー等では見たことがないような大粒のシジミが販売されています。

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十三湖の光景


十三湖  津軽半島にある十三湖。粒の大きいシジミの産地として有名だが、その昔は安藤水軍による交易で栄え、大阪の堺をしのぐほどの繁栄ぶりだったと伝えられています。写真の光景は十三湖の河口付近にある中島に通じる橋。



シジミの直売店


十三湖のシジミ直売店 十三湖河口付近にあるシジミの直売店。店にはアサリほどの大きさがあるシジミが売られており、旬の夏になると遠方からもわざわざシジミを買いに訪れる人いるほどの人気となります。

十三湖のバーベキュー


十三湖のバーベキュー 十三湖の中島でバーベキューを楽しむ人達。中島では湖水浴やキャンプ、シジミ採りなどが楽しめ十三湖一番の観光拠点となっています。

福島城跡


福島城跡  福島城は十三湖の北岸の高台にある城跡で鎌倉時代から室町時代中期までこの地を治めていた安藤氏の居城と考えられていますが、城そのものは平安時代後期に築城されたことがわかっています。

唐川城跡


唐川城跡 唐川城は安藤氏が福島城の奥にある山の上に建てた城で福島城の詰めの城でもあります。1443年にこの地で津軽の覇権を巡って安藤氏と南部氏が争い、南部氏が勝利しました。

呑龍岳展望台


呑龍岳展望台から見た十三湖 十三湖南岸にある「呑龍岳展望台」から眺めた十三湖の光景。弧の字状に砂浜が伸びているのが分かります。向かって左側が日本海で、奥に見える突き出た陸地は小泊半島。

幻の津軽王国


 昭和50年。当時の市浦町(現在の五所川原市の飛び地で十三湖の北岸地域)でひとつの古文書が発見されました。この古文書こそが「東日流外三群誌(つがるそとさんぐんし)」と呼ばれるものでその内容は事実だとすると日本の古代史を根底から覆すものだったのです。東日流外三群誌によれば今から2千7百年前の津軽地方にはアラハバキ王国(原日本人と朝鮮人、中国夏王朝から渡来した一族の混血民族)というものが存在し、その後奈良の地で神武天皇の軍団に敗北し津軽に逃れてきた長髄彦(ナガスネヒコ)が王位を受け継いだとされています。そしてこのアラハバキ王国は度重なる大和朝廷の東征をことごとく撃退し、その末裔は後の安倍氏(前九年の役で滅びますが、その血はのちの奥州藤原氏へと受け継がれていきます)につながっていくと記されています。
 この伝説の津軽王国の首都だった所が十三湊なのです。当時の十三湊は人口数十万、十三千坊と呼ばれる神社仏閣がたちならび、インド人、中国人、韃靼人(モンゴル系民族)も多く滞在し異国の宗教施設も数多くあったと記されています。その後奥州藤原氏の繁栄を支えた貿易港として機能し、平安時代末期には奥州藤原氏三代目秀衡の弟秀栄が十三氏としてこの地を治め、奥州藤原氏滅亡後も十三氏は存続し続けます。その後十三湊は安藤氏が統治することとなるのですが、1341年に突如十三湖を襲った大津波により一夜にして湖底に沈んでしまったのです。
 以上が東日流外三群誌のおおまかな概要ですが、この古文書は津軽の地で一大ブーム沸きおこします。なんせ自分たちの祖先は大和朝廷に打ちのめされた蝦夷氏だと思っていたのが、実は大和朝廷を何度も撃退したアラハバキで、しかもこの古代津軽王朝は邪馬台国などよりもはるか以前から存在しているというのですから、津軽の人達は「オラ達の先祖はアラハバキだからな」と自慢したそうです。また当時の文化人達にも大きな影響を与え、NHKの大河ドラマにもなった中世を舞台にしたある作品にはこの東日流外三群誌の世界観が多く取り入れられています。
 しかしその後の調査では古文書の多くが明治以降制作された紙に書かれていることが判明し、また古文書が見つかった昭和50年以前に知られていた歴史的事実は克明に記されているのに(亀ヶ岡縄文遺跡や十和田火山、岩木山の噴火、十三湖を襲った大津波など)、昭和50年以降に判明した歴史的事実については一切記されていないこと(例えば縄文時代最大の遺跡である三内丸山遺跡の事については一切記されていない)など矛盾点も多く、現在古文書として真偽のほどは明確にされていません。
 しかし十三湖が昔は日本を代表する国際貿易港であった事は事実であり、地元の古老達は東日流外三群誌が世に伝えられる以前から「十三湖の湖底には遠い昔の建物や石畳の跡が見え、黄金の仏像を拾った人もいた」といっていたという記録が残されていることから、平安の時代は平泉に次ぐみちのく第2位の都市で国際貿易港だったことは間違いの無い事実だったようです。