高野山 観光案内 「奥の院」



 奥の院は高野山を開いた弘法大師が御入定されている聖地です。高野山の一番東側にあり一の橋から始まる老杉に囲まれた約2kmの参道には20万基を超えるともいわれる諸大名や歴史的著名人達の墓石や、祈念碑、慰霊碑が立ち並んでいます。この参道を抜けた先にあるのが奥の院で、空海が今も瞑想されているといわれる御廟や1000年近く燃え続けている消えずの法灯の他、貧者から長者まで納めた者の身分を区別することなく輝く二万基もの献灯がある灯籠堂などがあります。この奥の院は壇上伽藍とならんで高野山の2大聖地となっており、写真撮影は禁止で今も瞑想されている空海上人に失礼がないように最新の注意をはらってお参りしなければなりません。墓石群がある奥の院参道を散策する場合、車やバスで向かうと入り口を通り過ぎてしまうので、バスの場合は手前の「奥の院口」で降りるか、車の場合は第11駐車場(有料)に車を停め参拝されるとよいでしょう。なお夏場は蚊対策の虫除け対策は必須です。
 また余談ですが空海上人には毎日食事が運ばれ、その料理(精進料理)も毎日同じ物では飽きるだろうという配慮から最近はパスタやリゾットといった西洋風の食事も用意されているそうです。

歩行距離 約4.5km(所要時間は約1時間30分だが各所を拝観して巡ると3時間くらい要する)
駐車場 あり。別途「高野山の駐車場」のページを参照。
所在地 高野山観光コースの地図を参照


一の橋


高野山 奥の院 一の橋 奥の院一の橋付近の光景。正式名称は「大渡橋(おおばし)」といい、案内によればではここ「一の橋」より奥の院参道は始まり橋より先は「人の世界ではない」とされています。また空海が参拝客を送り迎えしてくれると云われており、橋を渡る際には一旦立ち止まり手を合わせるのが習慣となっています。



奥の院参道


奥の院 参道 奥の院へ続く参道。高野山といえば戦国武将達のお墓が有名ですが、それらがあるのがこの「奥の院参道」。お墓は戦国大名のみならず、皇族や貴族、実業家、歌人など時の権力者や文化人のものもある。無数にある石塔は苔生したものも多く歴史の重みを感じます。

冬の光景


高野山 奥の院参道 冬の光景 高野山奥の院参道冬の光景。関西地方でしかも南国 和歌山県でこれほど雪が積もる所も珍しいのですが、このような寒さの中でも普段と変わらない姿でお努めをする僧侶の姿には感服します。なお右側に見えるのは松尾芭蕉の石碑。

水向け地蔵


高野山 奥の院 水向け地蔵 奥の院参道にある水向け地蔵。地蔵菩薩のほか観音菩薩、不動明王などが安置されており、御供所で経木や水塔婆を求めお地蔵様に納めお祈りします。

石田三成の墓


石田三成の墓  奥の院参道にある石田三成の墓。隣には伊達政宗や明智光秀らの墓もある。なお観光客に人気のある墓は参道の一番奥にある「織田信長」と入り口付近にある「武田信玄、上杉謙信」両ライバルの墓で、生前の愛憎を越え敵味方の区別なく安置されている光景が共感を呼んでいるのだそうです。

高野山の奥の院参道の墓


 織田信長や豊臣秀吉といった戦国武将の墓で有名な高野山奥の院参道ですが、ここに素朴な疑問が湧いてきます。高野山に数ある墓の下には本当に戦国大名の骨が埋まっているのでしょうか?
 実は日本には「両墓制(りょうぼせい)」というのがあり、これはひとりの死者に対し実際に遺体を埋葬した「埋め墓」と、参詣用の「参り墓」のふたつを用意する風習で、奥の院にあるのは、ほとんどが「参り墓」なのです。
 この参り墓の風習は刻まれている年号から平安後期頃から始まったと推測され、昔は高野山全体が聖地とされていた為、肉親や親しい者を亡くした人は「極楽」や「浄土」への再生を願い遺骨や遺髪などを収めた容器を高野山に持参しその聖域に埋めてきました。この為高野山の入り口とされる「大門」から奥(街側)には今でも数多くの石塔が地中に埋まっているのだそうです( 大門修理の時、周辺が掘りかえされた時にも多くの舎利容器(骨壷)が出土しています)。
 戦国大名達の墓は豊臣秀吉の頃から始まり、以来多くの権力者や有名人の墓が建てられましたが、その数は従前からある一般の墓などとあわせると20万基にもなり形や年代も様々となっています。
 近年は記録は残っているが実在が確認できなかった「前田利家」の供養塔なども見つかっており、苔生した数多くの供養塔の中には確認こそできてないが多くの歴史的人物のものもまだまだ眠っていると推測されています。


UCCコーヒー 企業墓 またこれら無数の墓のなかには「企業の墓」というものもあります。奥の院を一度でも歩いたことのある方は目にしたと思いますが「UCC上島珈琲株式会社」やヤクルト、福助といった有名企業のロゴやマークの形をしたモニュメントのようなお墓が存在しています。これは企業の建てた「慰霊碑」のようなもので亡くなった従業員の方々を供養していると共に企業の宣伝にも役だっているのだとか。この企業墓の風習は江戸時代から始まったとされ、現在100基近くあるのだそうです。