鎌倉の歴史年表



鶴岡八幡宮 日本を代表する観光都市である鎌倉。その歴史を紐解いてゆくと意外なほど古く、時代によって政治や文化の中心地として街の特徴も変わっていきます。鎌倉の歴史を知り昔の出来事に思いをはせながら鎌倉散策することで、より一層充実感が増すことでしょう。

鎌倉以前 〜1192年


 鎌倉を含んだ湘南・江の島地域には弥生人住居跡が見つかっており、かなり古い時代から人々の定住生活が営まれていたと推測されています。
 また言い伝えでは飛鳥時代の英雄 中臣鎌足が蘇我氏打倒を祈願するため鹿島神社に詣でる途中、由比ヶ浜で不思議な夢を見たので、護身用に持っていた鎌槍をこの地に埋めたとされており、これが鎌倉という地名の由来になったといわれています。この他、杉本寺、長谷寺、甘縄神明神社といった奈良時代創建と伝わる古社も複数残されています。
 奈良・平安時代には鎌倉郡の行政府がおかれ東海道の街道筋にあたることからそれなりに栄えたものと推測され、万葉集にも登場しています。

 平安時代の末期になると平忠常の乱平定で功績をあげた河内源氏の祖である源頼信の拠点となり以来河内源氏縁の地となります。頼朝や義経の父である源義朝も東国に下り力を蓄えていた若い頃は鎌倉に居を構えていたそうです(現在の寿福寺あたりといわれています)。


重要人物

源頼信
 藤原道長に仕えた源氏の頭領。源頼朝の直接の祖先にあたり頼信が鎌倉に拠点を構えたことから後々まで源氏と鎌倉との間に縁ができることとなります。


源頼義
 頼信の子で頼朝や義経から数えると6代前の人物。奥州藤原氏が生まれるきっかけとなった前九年の役で阿倍氏と戦った人物。鎌倉には鶴岡八幡宮の前身となる由比若宮を創建しています。



鎌倉時代 1192年〜1333年


 源頼朝は伊豆で兵を挙げますが大敗し房総へ逃れます。その後兵力を整え河内源氏の拠点で南側を海に他三方を山に囲まれた天然の要害である鎌倉に入り拠点とします。
 この時頼朝は前九年の役に際して源頼義(上述の頼信の子で頼朝や義経から数えると6代前の人物)が源氏の氏神である京都石清水八幡宮から勧請し由比ヶ浜に創建した由比若宮へ真っ先に参拝し、その1週間後には社を内陸部に遷し街造りを開始します。この遷された由比若宮が現在の鶴岡八幡宮です。その後、源平合戦での勝利を経て頼朝は鎌倉に幕府をひらきます。当時の「幕府」とは「征夷大将軍が本営とする戦時下における出征先の臨時行政機関」という意味合いが強かったのですが(幕府とは本来 野営用前線本部テントの意味)、頼朝は中央(京都)の朝廷に一定の配慮は示しながらも強大な武力を背景に武士を中心とした封建社会の基礎を築き上げていきます。史上初の武家政権を打ち立てたのは平清盛ですが、それは高い官位を得て実現したものであり、常に天皇の傍にいなければならなかったり、官位の無いもしくは低い人物とは直接話ができないなど色々制約がつきまとうものでした。源頼朝は征夷大将軍という軍の最高司令官の位を得て戦時もしくは出先における天皇の代理という位置づけで幕府をひらき自らが思い描くという日本史上初となる武士の社会を自由に作り出していったのです。この頼朝が行った朝廷・天皇と幕府・征夷大将軍という二重権力体制のやりかたは以後の武家政治の手本となり江戸時代まで約670年間引き継がれていくのです。


 覇道をもって王道を制した頼朝。しかし頼朝の血統は孫の代で途絶え代わりに北条氏が実権を握ります。これを好機と見た後鳥羽上皇が北条氏追討の兵を挙げますが(承久の乱)失敗し北条氏並びに鎌倉の政治的地位は盤石なものとなり、勢力も西国を含めた日本全土に及ぶこととなります。有名な「いざ鎌倉」の言葉は北条氏による封建制度が確立したこの頃(1250年前後)に生まれました。


 鎌倉幕府は中国と積極的に交易しその文化を取り入れました。この為鎌倉の和賀江嶋は国際貿易港として賑わいをみせます。しかし元々遠浅で港には適してない地形であるが故に、鎌倉幕府が滅びると港としての機能は失い、現在は現存する日本最古の港跡として史跡に指定されています。


 世界史上最大の版図を築き上げたモンゴル帝国(元)は2度にわたり日本にも押し寄せてきます。これが元寇(1274年,1281年)で日本勢は苦戦しながらも神風と呼ばれる台風のおかげで2回とも退けます。しかし膨大な戦費がかさんだ為、鎌倉幕府の財政は急速に悪化しまた防衛戦であった為、新たに領地を得ることができず命がけで戦った御家人達に恩賞を与えることができず御家人達の不満も膨らんでいきます。北条高時の時代になると倒幕を企てた後醍醐天皇の命により鎌倉に攻め込んだ新田義貞により北条氏は滅び、ここに140年近く続いた鎌倉幕府(鎌倉時代)も終わりを告げるのです。


重要人物

源頼朝
 源氏のプリンス。歴史の表舞台に飛び出るのは30代前半と実は当時としてはかなり遅咲きの人物です。

北条義時
 鎌倉幕府2代目執権。頼朝の妻政子の弟。頼朝の血統が途絶えた後、有力御家人達を制しまた承久の乱で皇軍を破り、実質日本における時の最高権力者となり、以後140年続く鎌倉幕府の基を築きます。

北条時宗
 鎌倉幕府8代目執権。モンゴル帝国による2度の侵攻を退け英雄と称されるも32歳という若さで病没する。

日蓮
 日蓮上人は現在の日蓮宗の開祖。比叡山で修行し日蓮宗を開宗しますが、比叡山の抵抗に遭い思うように布教活動ができなかった為、幕府のある鎌倉へ行きそこで布教活動を開始します。すでに武士の仏教として禅宗が浸透していた鎌倉において布教は困難を極めますが、熱心で情熱的な活動により少しずつ広まって行き、やがて幕府にも少なからず影響を与える存在となっていきます。この日蓮が布教活動を行った中心エリアが現在の小町大路で現在も日蓮縁の史跡が数多く残されています。


南北朝時代〜室町時代 1333年〜1603年


 後醍醐天皇による建武の新政が始まった後も、鎌倉には関東統治の為、鎌倉将軍府がおかれなどし、しばらくは京都に次ぐ政治の中心地となります。これは140年もの間京都が政治の空白地帯であったことや、鎌倉幕府討伐に功績のあった足利氏や新田氏等をはじめとした有力御家人の多くが鎌倉に縁があり、鎌倉を無視できなかったこと等が大きな理由ですが、やがて政治の中心が京都へ一極集中すると、鎌倉は次第に衰退し関東統治という役目もなくなり室町時代になると完全に歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
 草深い農業と漁業の村となった鎌倉。後にこの地を治めた北条氏(北条早雲が祖で鎌倉時代の北条氏と血縁関係はありません)の時代には頼朝も着目した天然の要害としての機能を遺憾なく発揮し武田信玄、上杉謙信といった名だたる戦国武将達を鎌倉で退けており、軍事上の要衝として機能するようになります。


江戸時代 1603年〜1868年


 鎌倉が再び脚光を浴びるようになるのは江戸時代になってから。江戸幕府をひらいた徳川家康が鎌倉を訪れた事を機に庶民も行楽に訪れるようになり、後に水戸光圀がこの地方を広く紹介したこともあり、江戸近郊の観光地として江の島と共に発展を続けます。


明治時代〜現在 1868年〜


 江戸時代から長く観光名所として栄えてきた鎌倉。明治時代になると西部の鎌倉山周辺は日本初の別荘地として開発が進められます。明治22年にはJR横須賀線が開通し昭和初期になると日本初となる自動車専用道路「市道大船西鎌倉線」も開通し、温暖な気候でオシャレな海水浴場もあるハイソな別荘地、保養地として知られるようになっていきます。戦後は駐留アメリカ軍の兵士達が湘南でサーフィンを始めた事などを機にマリンスポーツのメッカとしても発展してゆきます。そして昭和後期から平成にかけては歌にドラマに映画にと数々の作品に鎌倉及び周辺が登場し日本人に広く親しまれる観光地としての地位を不動のものとするのです。

重要人物

鎌倉文士
 良好な生活環境が整い都心部にも近い鎌倉には当時の文学者や文化人達がこぞって生活するようになりました。著名な人物では川端康成や芥川龍之介、国木田独歩、志賀直哉らがおり彼らは鎌倉文士と呼ばれ、彼らの活躍により鎌倉は戦後まもなくの頃まで日本の文化の発信地でもありました。また鶴岡八幡宮裏山の開発に対し、鎌倉文士が市民とともにストップをかけた「御谷騒動」はやがて「古都保存法」制定へと発展し日本における最初のナショナル・トラスト運動として知られています。