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南紀白浜 旅行記「南方熊楠記念館」


 南方熊楠記念館は和歌山県が生んだ世界的博学者、「南方熊楠」の業績顕彰や蔵書や書簡など約2万5千点の資料の保管、学芸振興などを目的に建てられた記念館で、隣接している旧邸は南方熊楠が大正5年から昭和16年まで生活し研究の拠点とした家です。白浜町の最西端、南紀の海に突き出た高台の上に建てられており眺望スポットとしても人気がある所です。

入館時間:9:00〜17:00(入館は16:30)
休館日:毎週木曜日(7/20〜8/31は休まず営業) 、年末年始
駐車場:有り(無料)
入館料:大人400円(300円)、小中学生200円(100円) ※()内は20名以上の団体料金
地図で所在地を確認する和歌山県西牟婁郡白浜町3601-1
公式HPを見てみるhttp://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/
問い合わせ先:0739-42-2872
 
南方熊楠記念館

南方熊楠記念館の光景。建物は南紀の海を360度見渡せる高台の上にあるのだが、周囲は亜熱帯の森に囲まれており、初めて訪れる場合は少々戸惑うこともある。南方熊楠はこのような南紀の自然に魅了され、居を構え研究に没頭したといわれています。
南方熊楠記念館
履歴書

もと日本郵船社長の矢吹氏が南方熊楠の研究所設立の寄付をする際に求めた履歴書。南方熊楠は矢吹氏の求めに応じ全長8m、文字数4万5千字の履歴書を作成した。これは南方熊楠の足跡を知る重要な資料となっている。

南方熊楠の履歴書
館内の光景

南方熊楠記念館、館内の光景。館内は6つほどのコーナーに別れておりそれぞれのテーマに沿ったものが展示されている。なお館内は撮影禁止となっており写真は和歌山県から提供してもらったもの。
南方熊楠記念館 館内の光景
信念のままに生きた在野の天才 「南方熊楠」
 
 南方熊楠は和歌山県和歌山市出身の人物です。類い希なる記憶力の持ち主で、幼い頃より神童と呼ばれた熊楠は17才で上京し東京大学を目指し予備校で勉学に励みます。この時の校長先生は後の首相となり晩年も熊楠と親交のあった高橋是清です。また同級生には夏目漱石、正岡子規などがいました。日本中の天才達が東京大学を目指す中、熊楠は次第に勉強に身が入らなくなりやがて図書館に入り浸るようになり最後は学校を落第してしまうのです。

 東京大学進学の情熱が冷めた熊楠はやがて世界を駆けめぐり世の中や宇宙の不思議を極めてみたいと思うようになります。そして資産家だった両親を説得し私費でアメリカへ留学します。しかしアメリカの学校も熊楠の欲求を満たしてくれるレベルではなく図書館に通い詰める日々が続きやがて退学してしますのです。この時期熊楠最大の理解者であった父が他界し家業は弟の常楠が継ぎ、やがて熊楠への送金も滞りがちになり熊楠は生活に窮するようになります。この為、露天商やサーカス団でアルバイトをしたりして植物や粘菌の研究をしフロリダでは新種の地衣類を発見し東洋に熊楠ありと知られるようになります。

 アメリカでの生活も自分の情熱を満たすことができないと悟った熊楠は芸術と学問の都ロンドンへ旅立ちます。ロンドンでも極貧の生活が続き馬糞の臭いが漂う馬小屋の二階を下宿先としましたが、やがてその博覧強記と学問への熱意が認められ大英博物館への自由な出入りを許され、当時世界でも最高レベルの科学誌NATUREが募集した「天文学上の問題」をテーマにした問題に寄稿しそれが掲載されたことを機に「学閥も官学アカデミズムも無い貧しい東洋の南方熊楠青年」の名は一気に知れ渡ることとなるのです。これは当時イギリスに滞在していた日本人や東洋人にとっても大きな誇りとなります。当時(明治20年代)ロンドンに滞在している日本人といえば大志や野望を抱く青年、貴族や政治家、学者の子息といった人達ばかりで、後に大臣や日銀総裁、大学教授、学者、海軍将校、高野山館長となるような人物です。熊楠のもとにはそのような人物達が訪れ交友を深めていくのです。そして彼らはその後生涯で大きな助けとなっていくのです。またこれらの人物の中には革命家「孫文」もあり、その後孫文は活動先で植物を採取しては熊楠に送り彼の研究の手助けをしてくれるのです。

 貧しいながらも充実したロンドン生活。しかしその生活にも陰りが見え始めてきます。熊楠は世界に認められたとはいえフリーの立場でいたいが為に大英博物館の正規館員の誘いを断り貧乏書生生活には変わりはなく、孫文もロンドンを去って行きます。また熊楠と親交を結んだ日本人達も一人、また一人と日本へ帰っていきます。心にポッカリと穴が開いたような気分の熊楠は大英博物館で乱闘事件をおこしてしまいます。原因は東洋人を侮蔑した英国人に対する怒りによるものですが、暴力を振るったことは事実で大英博物館への出入りも制限されるようになります。ここに至って海外で15年も過ごし34才となった熊楠は郷里である日本の和歌山へ帰る決心をします。

 日本に帰ってきた熊楠を迎えたのは弟の常楠です。常楠はまるで乞食のような姿の熊楠を見て驚きます。「8千円もの大金(現在の価値にすれば1億弱くらいだと思います)を持って15年も海外で過ごした結果がこれか」と思ったのでしょう。しかも満足に卒業した学校も無く当然学位も無しです。常楠は「長男の藤吉が女遊びで借金を作り、その借金取りが自分の所に押しかけ南方家はおしまい。だから兄さん(熊楠)も自分の家に来られては困る」と言い、兄である熊楠を受け入れることを断りますが、やがてそれは半分嘘であることが判明します。弟常楠は酒造業で大成功を収め父の代よりも盛大に商売をしていたのです。
 この弟の嘘に激怒した熊楠は常楠の家に押しかけ勝手に居座ります。父が亡くなった際の自分の分の遺産も相続してない熊楠です。事ある毎に常楠と衝突しますが、常楠は南方酒造勝浦支店の支店長という肩書きを熊楠に与え熊楠もそれに従い勝浦へと旅立つのです。

 勝浦支店の支店長とはいえ、比較的自由の身になった熊楠は南紀方面を色々散策します。そしてこの南紀の地が世界でも類い希なる植物の宝庫であることに気がつきます。やがて古くからの友人が住み、自分も気に入った田辺の地に居を構え(弟常楠の名義で購入してもらう)そこを終の棲家と定めます。ちなみに嫁をもらったのもこの時期で明治39年、熊楠40才、妻松枝28才の時でした。

 田辺の地で植物研究に没頭していた熊楠ですが明治39年に制定された「神社合祀令」が熊楠の神経を逆なでします。神社合祀令とは単純にいえば全国にたくさんある神社を整理統合しようというものですが、古くから集落で信仰されてきた小さな産土神社は軒並み統合されることとなりましたし、神社合祀令に便乗して悪徳神官と商人が結託し鎮守の森の木々を伐採しボロ儲けをしたためあちらこちらで禿げ山となった神林が見られるようになりました。元来政治には口出しをしたことのない熊楠ですがこれには激怒し反対運動を繰り広げていきます。この時期に知り合ったのが遠野物語で有名な柳田国男です。柳田国男は民俗学の研究をしていましたが、学識の深い熊楠に教えを請い熊楠はこれに快く応じ、内閣法制局に勤めていた柳田国男からは「神社合祀令」撤廃の協力を受けるのです。
 神社合祀令の反対運動は政令が廃止されるまで続きますが、この間熊楠は警察のお世話にもなり、留置所では新種の粘菌を発見しています。

 陛下の行幸
 世界に名だたる無位無冠の学者南方熊楠も晩年になると長年の植物採集の旅で痛めつけた体が言うことをきかなくなり、今まで集めた膨大な数の標本を整理する日々が続きます。そんな時学習院大学教授で陛下の生物学の侍議をしている服部博士を通じ粘菌標本を陛下(昭和天皇)に献上する機会を得ます。そして陛下が田辺へ行幸された時は粘菌についての講義をしてもらうよう依頼されるのです。熊楠は昭和4年田辺湾に入港したお召艦「長門(連合艦隊旗艦の戦艦)」の船上で進講を行います。これが熊楠生涯最大の晴れ舞台となり、その後も標本の整理を続けますが太平洋戦争が開戦した昭和16年12月29日に萎縮腎の為に75才の生涯を閉じるのです。
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