八甲田 雪中行軍の遭難 事件



 八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に発生した世界最大級の山岳遭難事故です。この遭難事故は当時強力に南下政策を推し進めていたロシアの侵略に備えて、青森市から冬場の八甲田を経由して八戸市まで移動する訓練中に発生したもので、訓練参加者210名中199名が死亡するという世界でもまれに見る冬山の遭難事故となりました。現在八甲田雪中行軍遭難者銅像がたっている銅像茶屋は遭難場所より700mほど西側にあり実際の遭難場所とは異なりますが、現在は八甲田観光の名所として多くの観光客が立ち寄るスポットとなっています。


地図で場所を確認する青森県青森市横内八重菊61


八甲田雪中行軍遭難者銅像


八甲田雪中行軍遭難者銅像 八甲田雪中行軍遭難者銅像。八甲田観光スポットの1つ銅像のモデルとなった後藤房之助伍長は救援隊の目印になるため、吹雪の中で目を開いたまま立った状態で仮死状態となっていたそうです(後藤伍長は救助後蘇生し数少ない生存者の一人となります)。なお後藤房之助伍長が実際に仮死状態で立ったままになっていた場所はここから青森市側に1.5kmほど戻った所です。






八甲田 雪中行軍の悲劇


 雪中行軍は当時ロシアとの戦争に備えた山岳訓練で、ロシア軍が津軽海峡を封鎖し八戸方面に侵攻上陸した際、駐屯地がある青森市から八甲田を越え迅速に軍を進める為の軍事訓練でした。青森市の兵舎を出発したのは明治35年1月23日。当初は穏やかな天候でしたが昼すぎ頃から天気が急変。風、雪が強くなり寒気もあいまって食料はすべて凍り付いてしまいます。ちなみに1月21日の前後はマタギ達の間では山の神の日とされ必ず山は大荒れとなり一度足を踏み入れたら二度とは戻れない白い地獄と言われる日でした。さらにこの年の1月25日は北海道の旭川で氷点下41.0度という日本の観測史上最低気温を記録しており、まさに観測史上最強クラスの寒波が押し寄せていたのです。
 そんな白い地獄の中、雪をかき分け進んだ隊員達は夕方四時頃には「馬立場(現在「八甲田雪中行軍遭難者銅像」が建っている所)」まで辿り着きましたが、そこから先は雪が胸までつかえ前に進めなくなってしまいます。そこで馬立場より少々東側にある窪地の鳴沢という所で露営をすることになります。これが悲劇の始まりで24日、25日と猛吹雪が続き兵士達は凍傷を防ぐ為睡魔と戦いながらずっと軍歌を歌い足踏みを続けますがやがて次々と倒れていきます。残りの兵士達もあまりの寒さの為体に血液がまわらす脳の働きに異常をきたし次々と異常な行動を起こし山麓一帯にちりぢりになりました。
 雪中行軍の異常を察知し救援隊が八甲田に向かったのは5日目の27日のことです。そして遭難場所から1.5kmほど青森市側にある大滝平まで来たとき雪の中にひとつの人影を発見します。この人が「八甲田雪中行軍遭難者銅像」のモデルとなった後藤房之助伍長で、救援隊の目印になる為、雪の中に立っていた後藤伍長はすでに仮死状態となっていました。その後3日ほどの間に70体ほどの遺体が収容されます。捜索は春になっても続き堤川に網を張るなどして懸命の捜索が行われ、最後の一名が発見されたのは5月28日のことでした。


八甲田雪中行軍のルート

 八甲田雪中行軍がたどったルートは昔兵舎があった青森市筒井(現・青森高校)を出発地点とする現在の県道40号線沿いで、途中には「雪中行軍遭難資料館」と犠牲者の方々が眠る「幸畑陸軍墓地」があります。そこから八甲田方面にかけては現在も木々が両脇に立ち並ぶ少々寂しげなルートとなっており、雪中行軍はこのルートを八甲田方面に進み「八甲田雪中行軍遭難者銅像」付近で行軍を断念し銅像東側にある鳴沢という窪地で露営をしやがて遭難するのです。


銅像茶屋


八甲田 銅像茶屋 八甲田雪中行軍遭難者銅像がある銅像茶屋。新緑や紅葉の時期ともなれば美しい光景が広がる休憩スポットです。後藤伍長の銅像はここから森の中に歩いて2〜3分程度の所にあります。 
冬場の八甲田 銅像茶屋 銅像茶屋の冬の光景。銅像茶屋は冬は雪に埋もれてしまう為休業となり周辺の八甲田温泉等も休業します。ご覧の雪の高さは2mほどですが例年に比べるとまだ低いほう。
 雪中行軍が遭難した場所はこの銅像茶屋の右手後方700mほどの所で現在は直接そこに通じる道は無く、一般の方が近づくのは困難となっています。